九州合同法律事務所とは九州合同法律事務所とは

九州合同法律事務所

九州合同法律事務所の成り立ちと理念

創立

 1980年春、司法修習同期であった池永満弁護士と辻本育子弁護士が、それぞれ北九州第一法律事務所と福岡第一法律事務所での3年間の実務を経て、福岡市東区に法律事務所を立ち上げました。それが、現在の九州合同法律事務所です。

 立ち上げの際は九州大学出身者の事務所との意味で「九大合同法律事務所」という名称でした。九大の付属施設と間違われて、一向にクライアントが訪れなかったので、これはいかん、と、頭をひねり、看板の訂正が最安の1文字で済むよう「九州合同」にしたのだそうです。

 

医療事故問題への取り組み

 今も多くの法律事務所は、裁判所がある福岡市中央区大名や赤坂のあたりにありますが、設立当時は裁判所から離れた東区には他には法律事務所はありませんでした。この地を選んだのは、創設者ふたりが学生生活を送った九州大学に近く、後進の育成に適していること、そして、九大病院に近く、医学部図書館を利用するのに便利だからでした。医療過誤事件に積極的に取り組みたいとの意欲があったのです。

 その当時、医療過誤訴訟は数も少なく、患者側が勝訴することは困難でした。何か過ちがあったのではないか、と内心では思っていても、それを声にすることのできる人はわずか。医療事故はまさに「埋もれた人権侵害」というべきものでした。

 

医療問題研究会の設立

 そんな中、医療過誤裁判に集団的に取り組もうとする弁護士たちが弁護団や研究会を立ち上げる動きが東京や名古屋などではじまっていました。医療過誤事件の根底には、患者の権利が尊重されず、単に医療の客体とされている問題があります。医療事故問題に積極的に取り組むことによって、その問題を明らかにし、患者にとって安全な医療、患者が主人公である医療、真に信頼関係に基づいた医療を実現することができる。そんな理想を掲げて、池永、辻本弁護士は、「医療問題研究会」の設立を呼びかけたのです。

 これに応えて、若手を中心に多くの弁護士が結集し、1980年9月12日、医療問題研究会が設立されました。同じ日、朝日新聞が富士見産婦人科事件を一面トップで報じました。医師資格さえ有しない理事長が、診療報酬目当てに、当時最先端の超音波検査装置を操るふりをしながら、子宮筋腫で手術しなければ大変なことになるなどといって、多数の女性達(後に損害賠償訴訟の原告となった人だけでも63名です)から摘出する必要のない健康な子宮を摘出したというものです。不透明な密室である医療現場に対する人々の不信感を高めた象徴的な事件でした。

 医療問題研究会は、設立当初から、弁護士だけではなく、医師や薬剤師など医療従事者も会員として参加しています。患者側で医療事故相談を受け、医療事故裁判をたたかうだけではなく、「医療に心と人権を」というスローガンを掲げ、患者を主人公とする医療、人権に根ざした心のある医療の実現をめざして、医療従事者とともに医療事故に学ぼうという志から出発しています。

 

「患者の権利宣言」運動

 やがて、志を同じくする全国の弁護士の間で「患者の権利宣言」に向けての動きが始まり、医療問題研究会の主要メンバーも参加して、1984年10月14日に名古屋で「患者の権利宣言案」が採択されました。あえて「案」という形にしようと提案したのは、これまた池永満弁護士。名古屋での集会で確定させるのではなく、それぞれが地元に持ち帰り、地域で議論する機会をつくって、患者の権利を浸透させていこうというものでした。

 これを受けて、医療問題研究会では市民や医療関係者にアンケートや聴き取りを実施しました。この取り組みが、全国保険医団体連合会による「開業医宣言」につながります。

 

九州合同法律事務所

当事務所を巣立った弁護士たち

 1982年に名和田茂生弁護士、1984年に安部尚志弁護士が入所、安部弁護士は1988年に独立して「はかた共同法律事務所」を開設、1989年には、設立者のひとりである辻本弁護士が独立して、原田直子弁護士とふたりで、その名のとおり「女性の権利としあわせ」をサポートする「女性協同法律事務所」を開設しました。

 

患者の権利法制定運動へ

 1989年、稲村鈴代弁護士、久保井摂弁護士が入所、同じ年、医療問題研究会は、福岡以外の九州・山口各県においても同様の活動ができるような組織作りをめざし、「九州・山口医療問題研究会」に改組され、各県に弁護団が組織されました。

 同じ年、福岡山の上ホテルで「医療問題弁護団・研究会全国交流集会」が開催されました。これは全国で医療過誤訴訟に取り組む弁護士達の経験交流集会で、毎年開かれています。福岡第一法律事務所で弁護士としてのスタートを切ったばかりの小林洋二弁護士も医療研の会員として参加しました。患者の権利宣言5周年にもあたり、それを記念する公開討論会が開催されました。ここで交わされた「患者の権利」を法制化すべきではないか、という議論が、患者の権利法運動の先駆けとなります。

 一方では、和田心臓移植事件以来長くタブー視され封印されてきた「脳死臓器移植」を日本でも実施できるようにすべきではないかという議論が始まっていました。1990年、政府は「脳死臨調」を設置し、各地で公聴会が開催されるなど、しだいに「脳死問題」は社会の注目を集めていきました。同年横浜で開催された全国交流集会において、九州・山口医療問題研究会はこの問題を取り上げ、その前にまずは日常診療における患者の権利を確立するため、患者の権利を定める法律を制定することが必要だと提言しました。

 これを現実のものとするため、1年間の準備期間を経て、1991年10月、「患者の権利法をつくる会」が設立されました。初代事務局長は池永満弁護士。全国展開の市民運動ですが、全体事務局は当事務所におかれています。

 

九州合同法律事務所

弁護士たちの動き、今の体制にいたるまで

 1993年1月、名和田弁護士が独立して、名和田法律事務所を開設、1994年1月には東京法律事務所で執務していた城台哲弁護士が入所しました。

 さて、池永満弁護士は1997年から2年間イギリスのエセックス大学に留学、留学に先立って福岡第一法律事務所から幸田雅弘弁護士が入所、入れ替わりに城台哲弁護士が福岡第一に移籍、その翌年には小林弁護士が入所し、幸田、小林、久保井の3名で池永弁護士留学中の事務所を支える体制となりました。

 帰国後の池永弁護士は、イギリスの患者の権利事情をはだで感じ、またWHOを訪問した際にヨーロッパにおける患者の権利の促進に関する宣言(1994年)の存在を知り、患者の権利が有効に行使できる医療を実現するためには、患者の苦情相談を受け付け、その解決のために援助する適切な第三者機関の設立が必要だとの結論に至り、1999年、患者の権利オンブズマンを設立しました。

 

 

 2000年4月、池永満弁護士が修習指導担当弁護士を務めた安倍久美子弁護士が入所。

 2001年1月、池永満弁護士が独立、法律事務所池永オフィス(現弁護士法人奔流)を開設しました。

 2006年11月、泉武臣弁護士が入所。

 2009年、幸田雅弘弁護士が独立し、建築紛争に専門的に取り組む六本松法律事務所を設立。

 同じ年の12月、緒方枝里弁護士が入所、翌年5月、30年近く過ごしたエレベーターのない九県前ビルから現在のメディカルセンタービル九大病院前に引っ越しました。その年の7月、泉弁護士がふるさとの鹿児島に戻るため退所。

 2011年12月、髙木士郎弁護士が入所し、現在の体制となりました。

 

これからも平和としあわせのサポーターとして

 さて、もっぱら医療問題に限って事務所の成り立ちを書いてみましたが、カネミ油症、水俣病などの公害事件や、筑豊じん肺訴訟などの労災事件、予防接種禍事件、先物取引などの消費者事件、生活保護裁判など、数多くの集団訴訟に取り組むほか、博多湾埋め立て問題、まちづくり条例運動、憲法をまもる運動など、社会的な活動にも取り組んできました。

 現在、事務所を構成する弁護士は5名、それぞれがどんな活動を行い、仕事のどんなところにやりがいを感じているのかは、それぞれの自己紹介をご覧いただくとして、全員に共通しているのは、仕事を通じて、ひとりでも多くの人に幸せになっていただきたい、そのための手助けをしたい、という思いです。

 「自由と正義」は日本弁護士連合会が毎月発行している雑誌のタイトルであり、弁護士法1条の「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」に基づくものですが、すべての人が生まれながらに享有し、尊重されるべき人権が保障された平和な社会のなりたちに、私たちなりに貢献したいと思っています。

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与えられる医療から参加する医療へ

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人権の確保と医療制度の改善