Aさん(女性・28歳)は、11月1日、嘔吐、めまい等を訴えてB医院を受診し、診察したB院長は、Sさんをメニエル病と診断して入院させました。入院後、Aさんには断続的な発熱がみられるほか、トイレに行った後、自室が分からなくなって帰れなくなるといった到底メニエル病では説明のつかない症状が観察されます。これはおかしいと思ったご両親はB院長に対し「脳の検査をしてほしい」と再三要請しますが、B院長はこれを無視、12日にはとうとう半身麻痺の状態になってしまいました。
お父さんは、「こんなところに置いておけない!」と転院を強行。B院長不在で連絡が取れないまま、B医院の婦長の自家用車でAさんをC病院に運び込みます。「もともとの病院の許可をとってくれ」となかなか診察しようとしない当直医を押し切って撮影してもらった頭部CTには、右側頭葉〜頭頂葉にかけての低吸収域が見られ、「ヘルペス脳炎」という病名が告げられました。
C病院に転院後も、Aさんの片麻痺及び意識状態は悪化し、14日からヘルペス脳炎に対する抗ウイルス剤アシクロビルの投与が開始されます。これがいくらか奏功し、片麻痺及び意識状態は改善、12月6日には退院の運びとなりますが、翌年2月には左側頭葉を中心にヘルペス脳炎が再燃し、高次脳機能障害の後遺症を残すことになりました。
その後、約10年間にわたって、ご両親は入退院を繰り返すAさんの介護を続けました。月日が経つにつれてAさんの知的障害はすすみ、まるで幼稚園児のようになってしまったとお父さんは言います。発病から10年後、Sさんは嚥下性肺炎でC病院に入院し、そのまま亡くなりました。
メニエル病は、めまいと吐き気の発作を繰り返す病気で、聴覚や平衡感覚を司る内耳の浮腫が原因であるとされています。通常は発熱を伴いませんし、意識障害や、片麻痺を起こすことはありません。そういった症状があれば、メニエル病以外の疾患を疑う必要があります。
一方、ヘルペス脳炎は、ペルペスウイルスの感染による急性脳炎であり、早期治療を要する内科的緊急事態です。アシクロビルの登場でやや予後は改善されましたが、それでも、致死率5〜10%、生存者の25%に重篤な後遺症が残るとされています。
ご両親の怒りがB院長に向けられていたことは言うまでもありません。しかし、C病院転院後も即座にヘルベス脳炎の治療が開始されているわけではないこと、しかもいったんは病状が軽快しており、B医院での治療の遅れと翌年2月のヘルペス脳炎再燃が直接結びつくかどうか難しいこと等から、B医院とC病院の双方を被告として訴訟を起こすことになりました。
B医院の過失は、発熱、炎症反応といった感染徴候や、意識障害といった神経学的所見にもかかわらず、頭部CT検査が可能な医療機関に転送しなかったことです。C病院に関しては、①アシクロビルはヘルペス脳炎を疑った時点で即座に投与すべきなのに2日間遅れていること、②アシクロビルは1日投与量30㎎/㎏、14〜21日間連続投与すべきとされているにもかかわらず、実際には12.5㎎/㎏程度しか投与せず、しかも8日間で中止してしまったことを過失と主張しました。
最も難しい論点は、これらの過失が、Sさんの高次脳機能障害にどう結びつくのかというところでした。早期に標準的治療を行ってもヘルペス脳炎の再燃が完全に防げるわけではありません。しかし、早期治療が勧められ、標準的治療が議論されているのは、その時点でのヘルペス脳炎を治療するためだけではなく、その再燃を可及的に少なくするという目的があることも確かです。
法廷でのB院長の証言はたいへん印象的なものでした。めまい、吐き気、頭重感、歩行困難を訴える患者の9割9分はメニエル病なんだから、こんどAさんと同じような患者が受診したとしても、自信を持ってメニエル病と診断する、と言い放ちました。このような姿勢で診療を続けていれば、いずれ難しい患者にあたって医療過誤が起こることは明らかです。その後、この医院で同種事案が起こっていないことを祈りたいと思います。
アシクロビル投与が遅れたことについてのC病院の弁明も不思議なものでした。転院当日である12日に撮影されたMRIには、右側頭葉〜右後頭蓋窩にかけてびまん性病変がみられており、同日付の画像読影報告書には、はっきりとヘルペス脳炎疑いと記載されています。
それなのに、なぜすぐにアシクロビル投与を行わなかったのか。実は、この報告書は、髄液検査でヘルペスウイルスの抗体上昇がみられてヘルペス脳炎との確定診断がついた14日に作成されたものだというのです。
いずれにせよ、12日の段階の臨床症状及びMRI所見からヘルペス脳炎を疑って、アシクロビル投与を開始すべきだったと考えられます。
過失と後遺症との因果関係の評価が難しいにもかかわらず、裁判所が、B医院、C病院の双方に一定程度の和解金の支払いを求めたのは、過失についての心証があまりにもよくなかったからかもしれません。