趣味
2026/02/07

清少納言⑥〜一瞬の輝きを捉える

 枕草子第一段に表現されているのは、春夏秋冬という四季の移ろいではなく、瑞々しい感覚で捉えられた各季節それぞれの魅力です。

 その場面は、瞬間よりはやや長いタイムスパンを持つけれども、人生とか、歴史とかいった、長い時の流れを感じさせるものではありません。

 例えば、平家物語の、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」や、方丈記の、「ゆく河の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず…」といった書き出しに表現されているのは、仏教的な無常観です。徒然草でも、冒頭と並んで最も親しまれているのは、「あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ」という文章でしょう。ぐっと時代は下りますが、奥の細道の書き出し、「月日は百代の過客にして行き交う人も又旅人なり…」も、まさにそうです。

 この感覚は、どうやら日本文化の通奏低音みたいなもので、なるほどこれが無常観かなどと改めて意識しないほどに自然な感覚であり、だからこそ、これらの文章は、日本人の心に深く染みこむ力を持っているのだと思います。

 その無常観が、枕草子には、ありません。人生とか、歴史とかいった、長い時の流れをあれこれ考えるまでもなく、そうそう、そうだよね! ほんとにそうだ! という打てば響く的な共感を誘うのが、枕草子の文章であり、数ある日本の古典のなかで、類を見ない特徴ではないでしょうか。

 

 月のいと明きに、川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などのわれたるやうに水の散りたるこそ、をかしけれ。

(第二一八段 月のいと明きに)

 たったこれだけ。

 これだけで、その月光に照らされた川面の輝きが、そこから跳ね上がる水滴の、一瞬の輝きが、見事に表現されています。

 

 視覚的なものだけではありません。

 ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細声にわびしげに名のりて、顔のほどに飛びありく。羽風さへ、その身のほどにあること、いとにくけれ。

(第二五段 にくきもの)

 プゥゥ〜ンという蚊の羽音が聞こえてきます。汗に湿った肌に感じるかすかな風圧。ああ、もう、眠たいのに、勘弁してくれよ、という心のざわつき。チクリと刺された時の感覚、そしてその後の痒みまで思い出されて、思わずおかしくなります。

 

 人を見る目も、鋭い。

 碁をやむごとなき人の打つとて、紐うち解き、ないがしろなるけしきにひろひ置くに、劣りたる人の、居ずまひもかしこまりたるけしきにて、碁盤よりはすこし遠くて、及びて、袖の下は、いま片手して控へなどして打ちゐたるも、をかし。

(第一四一段 碁をやむごとなき人の打つとて)

 清少納言の生きていた世界は、われわれの想像を絶する身分制社会でした。身分の違いは、打碁に興ずる姿にも現れます。一方が、寛いだ姿勢で、無造作に打ちすすめるのに対し、他方は、畏まった様子で、碁石をつまんだ方の袖を、片方の手で抑えて、慎重に石を置く。
 その場面が目に浮かびます。

 

 中学校の国語の教科書で、「春はあけぼの」に次いで多く採録されているのは、「うつきしきもの」の章段だそうです。

 瓜に描きたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするに、踊り来る。二つ三つばかりなるちごの、急ぎて這ひ来る道に、いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。

(第一四六段 うつくしきもの)

 思わず、目を細めたくなる、うつくしさ!

 

 九月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の、今朝は止みて、朝日いとけざやかにさし出でたるに、前栽の露はこぼるるばかり濡れかかりたるも、いとをかし。透垣の羅紋、軒の上などにかひたる蜘蛛の巣のこぼれ残りたるに、雨のかかりたるが、白き玉をつらぬきたるようなるこそ、いみじうあはれに、をかしけれ。
 すこし日たけぬれば、萩などもいと重げなるに、露の落つるに、枝うち動きて、人も手触れぬにふと上様へあがりたるも、いみじうをかし、と言ひたることどもの、人の心には、つゆをかしからじと思ふこそ、またをかしけれ。

(第一二六段 九月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の)

 わたしがすごく素敵だと思っているこんなことやあんなことって、他の人には面白くもおかしくもないんだろうなと思うと、それがまた素敵なんだよね。
 千年の時を超えて、こんな感性を共有できるなんて、それこそ、いみじうをかしきことではありませんか。

 

 

 

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