Aさんは65歳の漁師さんです。早期大腸癌手術及び膀胱腫瘍精査目的でB病院の泌尿器科に入院しました。まず、膀胱腫瘍に対する生検が実施され、良性であることが判明しました。その後、外科に転院し、外科と泌尿器科との合同で、膀胱腫瘍切除術と大腸癌切除術が実施されました。
手術から2日後、Aさんは視力の低下を訴えました。眼科の診療が行われたのは、それから5日後です。その結果、両眼瞳孔の散大と左眼圧の著明な上昇が認められ、急性緑内障と診断されました。その時点で、Aさんの左眼は、既に20センチの近距離で指数弁となっていました。
以降、緑内障に対する薬物治療が行われましたが、視力障害は徐々に進行し、最終的には、左眼失明、右眼矯正視力0.2で症状固定となりました。立体視が不可能となり、船の運転が困難になったAさんは、漁師の仕事を続けることができなくなってしまいました。
Aさんには、閉塞隅角緑内障の既往がありました。ところが、大腸癌手術の際の麻酔前投薬として、硫酸アトロピンが使用されていたのです。
硫酸アトロピンの添付文書の記載を確認してみましょう。
【禁忌】(次の患者には投与しないこと)
1)緑内障の患者[抗コリン作用により房水通路が狭くなり眼圧が上昇し、緑内障を悪化させるおそれがある]
つまり、添付文書の注意事項に違反した結果、添付文書で指摘されているとおりの有害事象が起こったという典型的な医療過誤です。最高裁平成8年1月23日判決の判旨に照らし、過失は明らかでした(この判例については、事務所ブログ医薬品添付文書と医療水準〜福岡地裁医療関係訴訟運営改善協議会を参照していただければと思います)。
なお、Aさんは緑内障の既往歴を病院側にちゃんと伝えており、膀胱腫瘍に対する生検の際には、硫酸アトロピンの使用は回避されていました。
急性緑内障との診断がなされた後、B病院は、「大腸癌手術を担当した医師が、緑内障の既往を十分把握していなかった」、「緑内障の既往を把握していれば、視力障害の原因となる薬剤の使用を避けることが可能であった」とAさんに説明し、謝罪しています。
Aさんが当事務所に相談にきたのも、責任があることを前提として、適切な損害額を算定してほしいという目的でした。
そこで、後遺障害7級相当で慰謝料と逸失利益を算定してB病院宛に請求書を送ったところ、Aさんの話から予想していた対応とは全く異なり、責任を全否定する返事が、さほど日をおかずに届きました。
訴訟での被告の主張は、「硫酸アトロピンは、点眼であればともかく、麻酔前投薬としての投与であれば眼圧に影響はない」、「添付文書で緑内障に禁忌とされていても、臨床現場では実際に使われることも多い」、「患者の左眼は本件手術前から慢性緑内障で失明状態であり、硫酸アトロピンによって視力が低下したものではない」といった、後から考えたことが明らかなものばかりでした。
もちろん、こちらが提出しているのは点眼薬としての硫酸アトロピンの添付文書ではなく、静脈注射用のものです。麻酔前投薬としての硫酸アトロピンで急性緑内障を発症した症例報告も複数存在します。臨床現場で実際に使われていることがあるとしても、それは「医療慣行」であって、「医療水準」ではありません(医療慣行と医療水準の違いについては、事務所ブログ医療と法律問題(第12回)〜東大病院輸血梅毒事件にみる「過失」を参照していただければと思います)。
また、Aさんは、この手術以前にはなに不自由なく漁船を運転していたものであり、以前から失明状態だったというのは、B病院のまったくの空想でした。
ひとつ問題だったのは、Aさんが5年前にレーザー虹彩切開術を受けていたことでした。「すでに緑内障の治療を受けている場合には、硫酸アトロピンの禁忌には該当しない」というのが、B病院が後付けで持ち出してきた理屈でした。
確かにそういう考え方はあるようです。しかし、この考え方が妥当するのは、レーザー虹彩切開術の効果によって眼圧がきちんとコントロールされている場合でしょう。Aさんがそういう状態であったという考え方は、「患者の左眼は本件手術前から慢性緑内障で失明状態であり、硫酸アトロピンによって視力が低下したものではない」というB病院のもう一つの主張と真っ向から矛盾するように感じられます。実際には、大腸癌手術を担当したB病院のスタッフは、Aさんの緑内障の既往も知らず、虹彩切開術を受けていたことも知らず、Aさんの術前の眼の状態にはまったく意を払っていなかったのです。
緑内障があっても、レーザー虹彩切開術さえ受けていれば硫酸アトロピンを投与しても大丈夫なのだ、というような安易な考え方(もちろんそんなことは添付文書に記載されていません)では、本件と同じような事故を防ぐことはできないのではないでしょうか。
訴訟は請求金額の7割程度の和解で解決しましたが、この問題はずっと心にひっかかっています。
なお、患者あるいは家族に対する事故後の説明では病院が責任を認めているようでも、弁護士が代理人について損害賠償を請求してみると責任を争ってくるというケースはよくあります。本件は、病院の責任が明らかでしたが、実際に調査してみると、病院に責任があるとはいえない場合も珍しくありません。そのため、当事務所では、病院側の説明がいかなるものであれ、医療事故調査として受任することを前提としています。
「相手がすでに責任を認めているのに難しいことばかり言う」と不快に思われる相談者もおられるようですが、調査もせずに楽観的な見通しを述べるわけにはいかないということを理解していただければと思っています。