Aさんは25歳の女性です。
バイクを運転中に自動車と衝突し、右鎖骨骨折、右腎損傷、右副腎損傷右第一楔状骨亜脱臼骨折、右第3中足骨骨折、右第2趾MTP関節亜脱臼等の障害を負い、鎮静及び気管内挿管の状態でB大学病院の救急救命センターに救急搬送されました。頭部CTでは頭蓋内出血や脳挫傷は見られませんでしたが、事故直後の意識状態はGCSでE3V4M5の13点、その後、JCSで3桁と進行性に悪化し、びまん性軸索損傷が疑われました。救命センター入室後には、痙攣様の不随意運動や、除皮硬直といった、脳障害を示唆する症状も記録されています。
事故後、日を追うにつれて意識レベルは改善していきました。しかし、それによって顕在化してきたのは、幻視、幻聴といった精神症状であり、事故前には見られなかった両親に対する暴言、暴力でした。右足は複数箇所の骨折でギプス固定の状態であるにもかかわらず、Aさんは疼痛を自覚せず、安静指示を守ることができませんでした。
事故から16日目、Aさんは、看護師が目を放した隙に3階のACU(acute care unit:急性期治療室)を抜け出し、同階屋上に設置されていた空中庭園のフェンス(高さ1.3メートル)を乗り越え、直下の階段に転落しました。この転落事故による重症頭部外傷で、Aさんは亡くなりました。
びまん性軸索損傷というのは、主に転倒や交通事故によって、回転加速度がかかった外力によって広範囲の脳神経に神経線維(軸索)の断裂が起こった状態をいいます。CT検査では明らかな局所性脳損傷の所見がみられないにもかかわらず、意識障害が続くような場合には、このびまん性軸索損傷が疑われます。MRIでは微少な脳損傷(白質病変)が認められることがありますが、Aさんについて、頭部MRIは撮影されていません。
通過症候群というのは、身体的原因から起こった精神症状のうち、可逆的な経過を辿り、意識障害の認められない一連の時系列的な精神症状を総括する概念であると説明されています。つまり、本件のような、交通外傷による意識障害から回復する過程の精神症状一般を指すということになりそうです。
本件において、Aさんが通過症候群による精神症状を呈していたことについては、遺族側とB病院側との認識は一致していました。
訴訟での対立点は、Aさんの精神状態から、病院側として、突発的に生命・身体に危険な行動をとることが予測可能であったか、その突発的な行動による生命・身体の危険を回避する注意義務があったか否かです。いくつかの具体的な注意義務が問題になりましたが、最終的に残ったのは、Aさんの動静を観察するスタッフがいない状態で、離床センサーがオフになっていたという問題です。
病院側は、Aさんの通過症候群は改善傾向にあり、屋上のフェンスを乗りこえて転落するような異常行動をとることは予測できなかったのだから、離床センサーをオフにしたことに問題はないと主張しました。
確かに、Aさんの全身状態は、交通事故から転落事故までの16日間の間に改善傾向であったことは間違いありません。意識レベルも、入院時点のほぼ昏睡状態から、意思疎通可能なところまで回復していました。
しかし、その一方で、看護記録には、辻褄の合わない発言や、看護師、両親に対する暴力、暴言といった異常な言動が数多く残されていました。転落事故の5日前には、ベッドから転落しているところを発見され、「頭を打ったら現実の世界に戻れるかと思って」と発言しています。同じ状況は転落事故の2日前にもみられました。
離床センサーをオフにしたスタッフは、その時のAさんの状況を、「ベッドに座ってクロスワードパズルをしており、異常はなかった」と述べていました。しかし、Aさんの遺品の中に残されていたパズルは、クロスワードパズルではなく、就学前の幼児向けの「点つなぎパズル」でした。まるで幼稚園生に戻ったような娘のリハビリに、いくらかでも役に立たないかと、お母さんが買ってきたパズルでした。
この事件では、幸い、精神科協力医の意見書を提出することができました。
……安全管理は、病棟全体で行うものです。リスク回避のための評価や対応は、病棟全体に共有されていることが必要です。本件では、精神症状に関する主治医の認識が、病棟全体に共有されていたとは思えません。
その端的な現れが、本件当時、離床センサーの電源がオフになっていたことです。
「健全な精神状態においては説明できないような行動をとる可能性」、「自分の身の危険を顧みない行動をとる可能性」がある患者に対するリスク回避策は、「目を離さないこと」が基本です。そして、四六時中目を離さないことが現実は無理である場合に、補助的なツールとして、このようなセンサーが活用されます。
本件では、担当看護師が退室した後、患者が病室を出て、ACUの入り口を開け、空中庭園に至り、フェンスを乗り越えるに至るまで、病院のスタッフは誰1人として患者の動静を認識していないようです。そのような人的・物的条件の下において離床センサーの電源をオフにしてしまったというのは、リスク回避策を完全に解除してしまったということにほかなりません。
このような判断は、1人の担当看護師がその場で行うべきものではありません。医師及び看護師等この患者の治療に関わるチーム全員によるカンファレンスで決定すべきものであり、その決定を病棟全体で共有すべきものです。
そのような適切なリスク回避のための評価や対応、そしてそのマネジメントが、病棟全体として欠如していたことが、本件事故の原因であると考えます。
裁判所は、病院側の過失を前提として、回避可能性などを考慮した上、通常の死亡慰謝料の半額程度の和解勧告を行い、双方、それに応じて和解が成立しました。
やや特殊な事件で、「通過症候群」という疾患概念や、「痛覚失認」という特殊な高次脳機能障害について勉強したことがとても印象に残っています。