Aさんが腹痛と吐き気を覚えるようになったのは、日曜日の夕方のことでした。頻回にトイレに通うAさんに、家族は病院へ行くよう勧めましたが、生来健康で病院嫌いだったAさんはそれに応じませんでした。
しかし、腹痛は増強する一方で、午後8時頃、家族が再び病院への受診を勧めると、流石のAさんも今度はそれに応じ、タクシーで病院へ向かいました。病院で受診を待つ間にも、Aさんは腹部膨満感を訴えてトイレに頻回に通いますが、この頃には尿もでない状態になっていました。
しかし、診察にあたったB医師は、着衣の上から聴診器を軽く当てただけで急性胃腸炎と診断、「点滴すれば楽になるから、帰宅するように」と指示しました。
点滴を終えた後、Aさんの腹痛、吐き気、腹部膨満感といった症状は、むしろ点滴前よりも増悪していました。その訴えにもかかわらず、看護師は、「点滴終了後帰宅というのが医師の指示だから」として、Aさんを帰宅させました。
帰宅後もAさんは、トイレに通っては胃液様の物を嘔吐し、ベッドに戻ってはくの字になって苦悶することを繰りかえしました。午前3時頃、「お前はもう寝なさい、明日の朝いちばんに別な病院に連れていってくれ」といったのが、Aさんの最後の言葉になりました。
翌朝、奥さんが目ざめた時には、Aさんは死亡していました。
直接死因は吐物吸引による窒息、司法解剖の結果、絞扼性腸閉塞を起こしていたことが判明しました。絞扼部は右腸骨縁側であり、虫垂炎手術の既往が影響していることが推測されます。
B医師による診断名である「急性胃腸炎」は、本来であれば、他の重篤な疾患を除外してはじめて下せる診断であるとされています。B医師は、下痢があったことから腸閉塞を除外して急性胃腸炎と診断したようですが、発症早期に下痢がみられることは腸閉塞と矛盾しません。症状の中心が下痢よりも嘔吐であったこと、虫垂炎の手術歴、69歳という年齢等からはなおさらです。
少なくとも腹部単純X線撮影はすべきであり、それさえしていれば、かなりの確率で腸閉塞の診断がついたはずです。
わたしたちが相談を受けた段階で、病院側は、300万円の支払いによる解決案を提示していました。吐物吸引による死亡は予見できないので、仮に過失があったとしても死亡との因果関係は認められないとの主張です。
交渉は平行線となり、遺族は訴訟に踏み切りました。
外科治療98巻6号(2008年6月)掲載の「腸閉塞・イレウスの致死性因子〜病院が心肺停止状態で搬送された症例からの検討〜」という報告によれば、横浜市立大学附属市民総合医療センターの高度救命救急センターに来院時心肺停止状態で搬入された腸閉塞症例25例の病態を検討したところ、心肺停止の直接原因としては、吐瀉物の誤嚥・窒息が80%(20例)と圧倒的に多数で、残りが、腸管虚血による敗血症3例、低栄養が1例、拡張腸管による換気不全下での鎮静剤使用で呼吸停止が1例という結果でした。つまり、吐物誤嚥による窒息は、腸閉塞を見逃して帰宅させてしまった場合には十分起こり得ることであり、被告病院の主張はまったく理由のないものだったといえます。
解決の決め手となったのは、死体解剖にあたった病理医の意見書でした。
その要旨は、以下のとおりです。
本屍の場合、直接的な原因となった嘔吐自体が絞扼性腸閉塞の症状である。
また、解剖では腹膜炎の所見がみられた。
腸閉塞により腸管の運動が阻害されると腸管内細菌の異常増殖が起こる。また腸管の血流障害により、腸管粘膜上皮のバリアが機能しなくなり、本来腸管内にとどまっているはずの細菌やその産生する毒素が体内に移行し(バクテリアル・トランスロケーション)、全身性の炎症が起こる。その現れの一つが、この腹膜炎である。
このことは、本屍の絞扼性腸閉塞が、腸管壊死の段階にこそ至っていないものの、相当重篤な状況にあったことを意味している。すなわち、死亡の直接的な原因となった嘔吐の時点では、全身状態及び意識状態が悪化しており、それが誤嚥による窒息に繋がった可能性もある。
絞扼性腸閉塞による死亡であることは明らかである。
こういった文献及び意見書を見た裁判所は、比較的早期に、過失と死亡との因果関係を認める前提での和解勧告を行い、病院もそれに応じて和解が成立しました。