Aさんは、当時20歳、おじいさんの代に創業した硝子屋さんで、二代目であるお父さんの下で働いていました。
Aさんが、幼い頃から通院していた近所のBクリニックを受診し、前日からの発熱、嘔吐、下痢を訴えたのは、春まだ浅い3月2日のことでした。B医師によれば、「大きくなったねえ」と声をかけると、「きつい」というのみで、問診してもはかばかしい答は得られなかったようです。カルテには37.4度という体温、倦怠感・口渇・下痢という主訴が記載されていますが、同行したおじいさんがいくらか補足した部分があったかもしれません。医師は、風邪と診断して薬を処方しています。
翌3日も、AさんはBクリニックを受診します。このときの体温は35.8八度。主訴は嘔吐・下痢。B医師は抗生剤を含む点滴をしています。Aさんの帰宅後に判明した尿検査の結果は、糖4+というものでした。
4日の明け方、おじいさんは、洗面所で水をガブ飲みしては嘔吐を繰り返しているAさんに気がつきます。これはただことではないと感じたおじいさんは、早朝、Bクリニックに電話し、朝一番で連れて行きました。この日の主訴は、嘔吐、口渇、背部痛。B医師は、念のためいったんは入院させますが、Aさんが、点滴ラインを引き抜く、ベッドから落ちるなどの異常行動を繰り返したため、「うちでは手に負えない」として帰宅を求めました。Aさんは自宅に戻る車の中で人事不省に陥り、おじいさんはそのままC病院に向かいます。しかし、C病院に到着した時点で既にAさんの心肺は停止、翌5日に死亡が確認されました。死因は糖尿病性ケトアシドーシスでした。
4日にBクリニックで行われた血液検査では、血糖1208であったことが後日判明しました。
この事件は、裁判になりました。
患者側は、4日の朝に受診した際には、前日の尿検査で糖4+という結果が既に分かっているのだから、速やかに糖尿病性ケトアシドーシスを疑った検査を実施し、インシュリン補充を含む治療を実施すべきだったと主張しました。これに対し、B医師は、発病して3〜4日で死亡に至る糖尿病など考えられない、ここまで重症化するには、相当以前から糖尿病を発症していたはずであり、死亡した責任は、そこまで重症化させ、かつ、その情報をB医師に伝えなかった患者及び家族の側にあるとして争いました。
糖尿病には、自己免疫反応などによって膵臓のβ細胞が破壊されインスリンがほとんど出なくなる1型糖尿病と、遺伝的素因に加えて、食習慣、運動不足、肥満などによってインスリン分泌が低下したり、インスリンに対する反応が低下したりする2型糖尿病があります。
2型糖尿病は、いわゆる生活習慣病と言われてきた病気であり(このような言い方は糖尿病患者のみなさんに対する偏見・差別に繋がるものであり、死語にすべきというのが今日の糖尿病臨床の考え方です)、糖尿病の約95%を占めます。治療の基本は食事療法と運動療法で、それでも十分な効果が得られない場合には、血糖降下薬による治療が行われます。
一方、1型糖尿病の治療にはインスリン補充療法が不可欠です。その7割程度は急性発症(発症から数週間後にはインスリン補充が必要)、2割程度は劇症型(発症1週間以内にインスリン補充が必要)です。糖尿病性ケトアシドーシスは、インスリンが欠乏し、ブドウ糖が利用できなくなった代わり脂肪の分解が亢進することによって起こるものであり、多くは、この1型糖尿病の発症時や、インスリン補充療法中の患者がインスリンを中断した際、あるいは感染症などを契機にインスリン不足に陥った際に起こります。早期にインスリンの静注や輸液による電解質バランスの調整を行わなければ死亡に至る重篤な糖尿病急性合併症の一つです。
Aさんの病型については確認されてはいませんが、おそらくは1型糖尿病の発症と、なんらかのウイルス感染を契機として急激にインスリン不足が起こり、糖尿病性ケトアシドーシスの状態になったものと思われます。
B医師側の主張からわかるとおり、B医師の糖尿病のイメージはもっぱら2型糖尿病、つまり生活習慣病、慢性疾患としてのそれであり、突然に発症して適切な治療が行われないと死亡に直結する1型糖尿病についてはまったく知識がなかったようです。ちなみに、この事件が起きたのは平成6年のことです。当時の医療水準として、どうだったのでしょうか。
三代目になるはずだったAさんの死に責任を感じたおじいさんは鬱病になり、裁判中に自殺してしまいました。自分がもう少し気をつければ孫が糖尿病にならなかったのではないか、自分がもう少し丁寧に説明すれば適切な診断に繋がったのではないか、おじいさんはそう考えたのかもしれません。そうだとしたら、これは自分の知識不足を棚に上げて、Aさんの死を生活習慣病によるものだとしてAさん自身や家族の責任に帰そうとしたB医師による二次被害とも言えます。
その後、裁判所の和解勧告により、B医師が全面的に責任を認める形での和解が成立しました。
Aさんの命は戻らないにせよ、せめて、おじいさんが生きている間に和解ができていればという胸苦しい思いが残る事件でした。