Aさんは70歳台の女性です。数年前にレンメル症候群の疑いでB病院に入院して以来、3ヶ月に一度の割合で、外来での経過観察を続けてきました。あるとき、主治医に胃の痛みを訴えたところ、「胃炎・維持療法が必要な難治性逆流性食道炎」との診断名でアシノン錠を処方されました。当初は14日分が処方されていましたが、ある時期から84日分が処方されるようになり、薬剤も、オメプラール錠へ、さらにタケプロンOD錠へと変更されました。
アシノンの処方が開始されて約2年半、Aさんが別のC病院で上部消化管内視鏡検査を受けたところ、ステージ4の胃癌が発見されました。既に手術もできない状態であり、約半年の闘病生活を経て、Aさんは死亡しました。73歳でした。
アシノンはH2ブロッカーの一種で、その胃酸分泌抑制作用から、上部消化管潰瘍や逆流性食道炎の治療に使用されます。添付文書には、「本剤の投与で胃癌による症状を隠蔽することがあるので、悪性でないことを確認のうえ投与すること」との注意が記載されています。
オメプラール及びタケプロンはPPI(プロトンポンプインヒビター)であり、H2ブロッカーよりもさらに強い胃酸分泌抑制作用を有しています。いずれの添付文書にも、非びらん性胃食道逆流症の治療に用いる場合の注意事項として、「本剤の投与が胃癌、食道癌等の悪性腫瘍及び他の消化器疾患による症状を隠蔽することがあるので、内視鏡検査等によりこれらの疾患でないことを確認すること」と記載されています。
なお、日本消化器学会「胃食道逆流症診療ガイドライン」でも、内視鏡検査によって胃食道逆流症(GERD)の診断をした後にPPIによる治療を開始することを原則としています。内視鏡検査設備をもたない医療機関に配慮して、臨床症状のみで胃食道逆流症と診断してPPIによる治療を開始することも認められていますが、症状が持続する場合にはやはり内視鏡検査による他疾患の除外が必要です。
しかし、アシノン処方開始からステージⅣの胃癌が発見されるまでの2年半、B病院では一度も内視鏡検査が行われていませんでした。
最高裁平成8年1月23日判決は、「医薬品の添付文書(能書)の記載事項は、当該医薬品の危険性(副作用等)につき最も高度な情報を有している製造業者又は輸入販売業者が、投与を受ける患者の安全を確保するために、これを使用する医師等に対して必要な情報を提供する目的で記載するものであるから、医師が医薬品を使用するに当たって右文書に記載された使用上の注意事項に従わず、それによって医療事故が発生した場合には、これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り、当該医師の過失が推定される」と判示しています。本件の各薬剤の使用が、それぞれの添付文書の注意事項に反するものであることは明らかでした。
B病院側は、「逆流性食道炎というのは保険病名であり実際の診断は単なる胃炎である」、「このようなH2ブロッカーやPPIの使い方はごく一般的なものだ」、「Aさんは胃癌を疑うような症状を一度も訴えなかった」、「これらの薬が胃癌の症状を隠蔽するという添付文書の記載にはエビデンスがない」などと責任を争いました。
このような使い方は一般的に行われているというのは、B病院のいうとおりなのかもしれません。ということは、同じような経過で癌の発見が遅れるケースも相当あるのではないでしょうか。
そういった症例が医学雑誌に報告されることは、まずありません。さらに、胃癌それ自体は薬剤の副作用ではないので、薬事法(現薬機法)上の副作用報告制度で報告されることもありません。つまり、「これらの薬剤が胃癌の症状を隠蔽することがある」という添付文書の記載については、性質上、エビデンスが蓄積されることは期待できないのです。
そもそも単なる胃炎にこのような薬剤を長期間投与する必要があるでしょうか。投与する必要があると判断したのであれば、やはり内視鏡によって胃癌でないことを確認すべきだったのではないでしょうか。
この事件は、裁判所の和解勧告により、一般的な死亡慰謝料程度で解決しました。
改めて、最高裁平成8年1月23日判決の重要性を認識する事例であり、「添付文書の記載にエビデンスがない」という方には、このようなケースが実際に存在することを、ぜひ知っていただきたいと思います。この判例については、事務所ブログ医薬品添付文書と医療水準〜福岡地裁医療関係訴訟運営改善協議会も参照していただければ幸いです。