清少納言の、本名は分かっていません。
それは、この当時でいえばごく普通のことです。もちろん、名前はあったはずなんですが、平安中期〜後期にかけて活躍した女性の本名は、ほとんど知られていません。多くの場合、身内の男性との続柄であったり、身内の男性の官職に因んで名付けられた女房名で記録に残されています。例えば、蜻蛉日記の作者である藤原道綱母や、更科日記の作者である菅原孝標女は前者の例ですし、右近衛少将藤原季縄の娘である歌人右近や、中務卿敦慶親王の娘である歌人中務は後者の例です。
間違いないのは、清原元輔の娘であり、清少納言の「清」は清原という姓に由来するものであること。
契りきな かたみに袖を しぼりつつ すゑの松山 波こさじとは(後拾遺集770)
今昔物語には、元輔の飄逸な人柄を伝える逸話が残されています。
今昔、清原の元輔と云ふ歌読有けり。其れが内蔵の助に成て、賀茂の祭の使しけるに、一条の大路渡る程に、□の若き殿上人の車、数あまた並立て、物見ける前を渡る間に、元輔が乗たる庄馬、大躓して、元輔、頭を逆様にして落ぬ。
年老たる者の馬より落れば、物見る君達、「糸惜」と見る程に、元輔、糸疾く起ぬ。冠は落にければ、髻露無し。瓷を被たる様也。馬副、手迷をして、冠を取て取するを、元輔、冠を為ずして、後へ手掻て、「いでや、穴騒がし。暫し待て。君達に聞ゆべき事有」と云て、殿上人の車の許に歩み寄る。
夕日の差したるに、頭は鑭鑭と有り。極く見苦き事限無し。大路の者、市を成して、見喤り走り騒ぐ。車・狭敷の者共、皆延上りて咲ふ。
(今昔物語二十八巻六話 歌詠元輔賀茂祭渡一条大路語)

落馬したはずみに冠が脱げてしまい、禿げ頭を観客に笑われながら、馬が悪いのではない、冠が悪いのでもない、こういったことにはいくつもの先例があることなのだ、これを笑う方が心得違いだと長広舌を振るう清輔。
此の元輔は、馴者の、物可咲く云て、人咲はするを役と為る翁にてなむ有ければ、此も面無く云ふ也けりとなむ語り伝へたるとや。(同)
口達者で、人を笑わせるのが自分の役目だと心得ていたこの父の血筋を、清少納言は確実に受け継いでいるようです。
もちろん、清輔はただの道化者だったわけではありません。いわゆる「梨壺の五人」の一人として、村上帝の許で、大中臣能宣、源順、紀時文、坂上望城とともに、古今集に続く第二の勅撰和歌集である、後撰集の編纂にあたった歌人です。
紫式部日記には、実家土御門邸で出産を終えた中宮彰子が一条院内裏に還御するにあたり、父道長が冊子を贈った記事があります。
手筥ひとよろひ、かたつかたには白き色紙つくりたる御冊子ども、古今、後撰集、拾遺抄。その部どものは五帖につくりつつ、侍従の中納言行成そのとき大弁、延幹と、おのおの冊子ひとつに、四巻をあてつつ、書かせ給へり。表紙は羅、紐おなじ唐の組、懸け子の上に入れたり。
下には、能宣、元輔やうの、いにしへいまの歌よみどもの家々の集書きたり。延幹と近澄の君と書きたるものはさるものにて、これはただ近うもてつかはせ給ふべき、見しらぬものどもにしなさせ給へる、いまめかしきさまことなり。
(紫式部日記 十一月十八日〜還御の手土産)
古今集や後撰集といった勅撰集の下ではありますが、その家集がこの手土産のなかに含まれているというのは、一条朝時代、つまり清少納言の時代に、相当に人気のあった歌人だったものと思われます。
後撰集の編纂と並んで「梨壺の五人」の業績と伝えられるのが、万葉集の古訓です。つまり、元輔は、歌詠みであるだけではなく、歌学者でもありました。
万葉集の成立がいつ頃なのかについては諸説あります。その編纂に大伴家持が深く関わっているいることは確かであり、8世紀末の成立というのがもっとも有力でしょうか。しかし、それ以前に、橘諸兄の許でかなり形が整っていたという説もありますし(8世紀前半)、家持が整理した万葉集は、いま、われわれが持っている万葉集の一部に過ぎないという説もあります。古今集の仮名序で取り上げられている万葉集も、どれほど今の形に近いものだったのか、よく分かりません。
いずれにせよ、10世紀半ばの村上朝時代においては、万葉集は普通に読める歌集ではなく、研究の対象になっていました。
わたしたちが万葉秀歌として知っている歌の読み方は、この梨壺の五人を嚆矢とする、数々の研究者たちによって形成されてきたものです。
ひんがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
柿本人麻呂の代表作の一つで、わたしもとても好きな歌ですが、万葉集の表記は、こうです。
東野炎立所見而反見為者月西渡
いわゆる「略体歌」といわれる形式の歌です。一字一音の万葉仮名ではなく、もちろん、漢文でもない。日本語風に読もうと思っても助詞がない(これに対して漢字で助詞が補われている形式の歌を「非略体歌」といいます)。
だから、どう読めばいいのか、手がかりは極めて少ない。
実際、この歌にはさまざまな訓読があって、「あづまのの」とか、「けぶりの立つところ見て」とか、「月西渡る」という読み方もあるようです。
東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
とてもいい歌だという思いは変わりませんが、人麻呂が偉いんだか、訓読した人が偉いんだか、という気がしないではありません。