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2026/09/02

和泉式部⑥〜歌にみるその前半生

 和泉式部の生涯は、さまざまな形で虚構化されていますが、もちろん、清少納言や紫式部同様、実在の人物であり、遺された多くの歌から、その実像をうかがうことができます。

 

 和泉式部集は、春20、夏19、秋20、冬20、恋19首からなる、いわゆる百首歌から始まります。

 今日、和泉式部集と呼ばれている私家集については、続集と称される部分が、後拾遺集編纂より先立つ時期に、正集と称される部分が、それよりかなり後の千載集から新古今集編纂時期に成立したものと考えられていますが、詠まれた時期についていえば、この百首歌は、曽根好忠、源順、源重之らいわゆる河原院周辺歌人の影響下で歌を学んでいた若い頃の詠歌と考えられているようです。

 

  黒髪の乱れもしらずうち臥せばまずかきやりし人ぞ恋しき (正集86)

  君こふる心はちぢにくだくれどひとつも失せぬものにぞありける (正集91)

 

 いずれも、百首歌の、恋の部に収録されている歌です。

 紫式部は、和泉式部の歌を、「歌は、いとおかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざれ、口にまかせたる言どもに、必ずをかしき一ふしの目にとまる詠み添え侍り」と評しました。歌についての知識や、理論に通じた本当の歌詠みではないが、ふと口をついて自然に出てきたような歌が持ち味だ、という意味なのだと思います。

 

 確かに、このこの「黒髪の」や「君こふる」といった恋の歌の魅力は、枕詞とか、序詞とか、縁語とか、本歌取りとか、そういった技術的な企み抜きに、この三十一文字だけで勝負するという真っ直ぐさにあるように思われます。その分、深みに欠けるというのが紫式部の評価かもしれません。

 しかし、和泉式部日記が、強い文学者意識によって虚構化された日記文学であるのと同様、和泉式部の歌の多くは、極めて意識的に作り込まれたものです。それは、この百首歌の試みをみても、また、「いはほのなかにすまはかは」という古歌の上の句12文字を最初においた勒字歌や、「観身岸額離根草、論命江頭不繋舟」の訓読の文字を最初に置いた勒字歌をみても明らかです。和泉式部集の詞書からは、万葉集を手許において学んでいた時期があったこともうかがえます。

 そういった、歌の歴史、理論、技術を十分に踏まえた上で、いかにも自然に口をついて出てきたような歌が詠めるところが、和泉式部という歌人が天才と称される所以なのでしょう。

 

 こういった初期の恋歌は、紫式部のいう「けしからぬかた」としての和泉式部像を裏切っているという意味でも、印象的なものです。

 ここで和泉式部が想っている相手は、最初の夫である橘道貞であると考えられています。道貞は、長保元年(999年)に和泉守に任じられましたが、任地に伴ったのは別の女性であり、和泉式部は京に残されました。

 なお、この点については、和泉式部集の次の歌を根拠として、いったんは道貞とともに和泉に下ったのだという説もあるようです。

 

 また、和泉守道貞が妻の下る日、わが下る、同じ日なれば

   なかなかにおのが船出のたびしもぞ昨日の淵を瀬とも知りぬる (正集259)

 

 しかし、「わがくだる」の主語が和泉式部であるとすれば、それとは別に、「和泉守道貞が妻」という人物が登場しているわけですから、この歌を根拠として和泉式部が道貞とともに和泉に下向したと考えるのは無理ではないでしょうか。

 この歌は、もうひとつほぼ同じ歌が収録されており、いわゆる重出歌の一つに数えられるものです。

 

 「もとろもに田舎へ」などいひし男、去りて、異女を率ていくと聞きて

   なかなかにおのれ舟出る日しもこそ昨日の淵を瀬とも知りぬる (正集749)

 

 ここで「異女」と呼ばれているのが、259番の詞書で「和泉守道貞が妻」と呼ばれている女性と考えられます。

 過去に自分に「一緒に地方へ下ろう」と言ってくれていた道貞が、自分とは違う女性を連れて和泉に下っていった。その道貞の心変わりを、「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬となる」(古今集933)という古歌を引いて慨嘆したのがこの歌だとすれば、やはり、式部は京に残されたのだと考えられます。

 この頃、式部は、弾正宮為尊親王の愛人であったとされており、それが道貞との婚姻関係破綻の原因なのか、あるいは破綻後の関係なのか、その先後関係は不明です。しかし、式部の黒髪を「まづかきやりし人」として考えられるのは道貞ですし、式部が心砕かれたのは道貞との関係であったと考えるのが自然です。

 

 一方、為尊親王との恋を詠ったと思われる歌は残されていません。

 帥宮敦道親王については、和泉式部日記があり、和泉式部続集には、100首以上に及ぶ帥宮哀傷歌群が残されているというのに。

 なお、千載集には、「弾正尹為尊の親王におくれ侍りてよめる」との詞書を持つ歌が収録されているのですが(哀傷歌548)、和泉式部続集をみれば明らかなとおり、これは帥宮哀傷歌群の一つであり、この詞書は撰者藤原俊成の誤解ではないでしょうか。

 

 栄華物語は、為尊親王の死は、疫病の流行する都大路の夜歩きを止めなかったからだとして、その行き先の一つに和泉式部の名を挙げています。

 弾正宮うちはへ夜歩きの恐ろしさを、世の人安からずあいなきことなりと、さかしらに聞こえさせつる。今年は大方いと騒がしういつぞやの心地して、都大路のいみじきに、ものどもも見過しつつあさましかりつる御夜歩きのしるしにや、いみじうわずらはせ給ひて、うせ給ぬ。この程は新中納言、和泉式部などにおぼしつきて、あさましきまでおはしましつる御こころざしを……

(栄華物語 とりべ野)

 

 和泉式部日記を読むと、敦道親王との出会いの場面で仄めかされる「故宮」との式部との関係も、式部と帥宮との関係同様に熱烈なものだったように思いがちです。しかし、それはあくまでも匂わせているだけであり、為尊親王との具体的なエピソードは一切語られていません。そして、和泉式部の、いわば表芸である歌の世界においては、為尊親王の存在感は無に等しい。

 為尊親王は、前帝である花山院と春宮居貞親王の弟であり、一条帝にも居貞親王にも子がいない当時、次代の春宮の最有力候補でした。そのような為尊親王にとっては、式部は下っ端役人の妻に過ぎず、真剣な恋愛の対象ではなかったとも考えられます。

 一方、式部にとっては、迫られて抗える相手ではなかったかもしれません。

 夫橘道貞は、父大江雅致と昌子内親王太皇太后宮での同僚であり、為尊親王との浮名を聞いた父は、和泉式部を勘当せざるを得なかった。式部は、そういうことではないのだと父に訴えるけれども、信じてもらえない。「なきなをば」(正集251)の歌からは、そんな彼女の苦しい立場が窺えます。

 

 式部は、帥宮の愛を受け入れ、その邸に迎え入れられた後も、道貞への想いを詠い続けます。

 

 みちさだみちのくにになりぬと聞きて、いずみしきぶにやりし

   ゆくひともとまるもいかに思ふらん別れてのちのまたのわかれは(183)

 かへし、しきぶ

   わかれてもおなじみやこにありしかばいとこのたびの心ちはやせし(184)

(赤染衛門集)

 みちのくにの守にたつをききて

   もろともにたたましものをみちのくの衣の関をよそにきくかな

(和泉式部続集847)

 

 最初の夫である道貞を想いながらも、雲上人である為尊親王や敦道親王の身勝手な愛に翻弄され続けたのが、「けしからぬかた」和泉式部の前半生だったのではないかとも思えます。

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