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2026/05/28

紫式部⑤〜清少納言に対する酷評

 王朝文学の最高峰「源氏物語」の作者として名高い紫式部は、紫式部日記という同時代資料の記録者としても、文学史の中に大きな地位を占めています。特に、その日記の消息文といわれる部分は当時の後宮を描いたとして貴重であり、就中、清少納言、和泉式部、赤染衛門についての批評は、当時文学シーンを知る上で、極めて興味深いものがあります。

 

 清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。

 かく、人と異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは。艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかよく侍らむ。

 

 率直な批評というよりは、むしろ露骨な悪意の表出であり、批評する側の人格が疑われかねないほどの文章です。

 

 紫式部が中宮彰子のもとに出仕したのは、早くても寛弘2(1005)年、定子が世を去って5年後のことです。彰子の入内は長保元年(999年)、弱冠12歳の頃であり、一方の定子は23歳ですでに二人の子の母でした。そして、その翌年には定子は亡くなってしまうのですから、一条帝を巡って定子と彰子とが寵を争うという状況ではありませんでした。紫式部と清少納言がライバル関係にあったかのようなイメージで語られることがありますが、二つのサロンが並び立っていたわけではありません。おそらく、紫式部自身は、清少納言に会ったことはないのではないか。
 では、紫式部はなぜこんな極端な評価を、その日記に書きつけたのでしょう。

 

 赤間恵津子氏は、著書『枕草子日記的章段の研究』において、定子の忘れ形見である敦康親王立太子問題との関係でこの文章を読み解いています。清少納言は定子の死後もまだ後宮にあって、敦康親王派としての影響力を発揮しており、そのために、彰子サロン=敦成親王派の紫式部としては、清少納言を否定する必要があったのではないかというのが赤間氏の推理です。

 

 わたしは、この赤間説にあまり納得していません。

 紫式部にせよ、清少納言にせよ、後世においてこそ名高い文学者ですが、存命当時は一女房です。その一女房が、誰が皇位を継ぐかという問題に、どれほどの影響を与えることができるでしょう。

 

 また、これは紫式部日記という読み物をどう理解するかという問題にも関わっています。

 土佐日記、蜻蛉日記、和泉式部日記、更級日記といった読み物が、「日記」という体裁をとりつつ、実際には、不特定多数の読者の目を想定した「日記文学」であるのに対して、紫式部日記には、そうとも言えない部分があります。敦成親王(成長して後一条天皇)の誕生を描いた部分こそ、彰子サロンの半ば公的な記録(ほぼそのまま「栄花物語」巻第八「はつはな」に引用されています)とみられますが、この清少納言評を含むいわゆる「消息文」と言われる部分は、広く読まれることを意識したものとは思えません。自分がいかに才覚を隠して「おいらか」な人物として振る舞っているかを語った部分は、周囲に読まれたらその振る舞い自体がぶち壊しになりかねない内容を含んでいます。

 もっとも説得力のある解釈は、この消息文は、娘である大弐三位に対する私信として書かれたものであり、それが、公的な「日記」に紛れて保存されてきたというものです。

 つまり、最も自分を知る者だけに向けて、あるいは自分が最も理解してほしいと思っている相手にだけ向けて書かれた文章。


 そうであるならば、そこに書かれた清少納言評は、東宮にふさわしいのが敦康親王か、敦成親王かなどといった政治的思惑をもった言説ではなく、純然たる本音と理解されるべきなのではないでしょうか。

 そして、その本音は、紫式部の中で、清少納言という人物が、極めて大きな存在だったことを意味しているように感じられます。

 そこには、単に枕草子の筆者というだけではなく、おそらく、かつて存在した定子サロンの中心人物としての評価も含まれているようです。

 斎院などのやうの所にて、月をも見、花をも愛づる、ひたぶるの艶なることは、おのづから求め、思ひても言ふらむ。朝夕たちまじり、ゆかしげなきわたりに、ただごとも聞き寄せ、うち言ひ、もしはをかしきことをも言ひかけられていらへ恥なからずすべき人なむ、世に難くなりたるをぞ、人々は言ひ侍るめる。みづからえ見侍らぬことなれば、え知らずかし。

 直接的には、紫式部自身の所属する彰子サロンと、大斎院選子内親王のサロンとの比較論から始まった文章なのに、そこに引かれた、「趣味のいい問いかけに対して当意即妙の答えを返すような人は、もういなくなってしまったと人々は言うようだ」というコメントは、現に活動している大斎院サロンではなく、この文章執筆時には存在していないサロンを念頭に置いたもののようです。そうであれば、それは、紫式部が出仕する以前の一条朝に存在した、定子のサロンであると考えて間違いないでしょう。自分が見たことじゃないので知りませんけど、というのですから。

 

 清少納言が、枕草子の冒頭に、一度だけ書きつけた「あけぼの」という言葉を、紫式部は、源氏物語の中で12回も使っています。

 紫式部にとって、清少納言は、政治的な立場などとはまったく無関係に、彼女がどこにいるかとも無関係に、それこそ、純粋な文学的ライバルとして、気になって仕方のない存在だったのではないか、とわたしは思っています。

 

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