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2026/08/25

和泉式部⑤〜伝説の始まり

 夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下くらがりもてゆく。築地の上の草あをやかなるも、人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、近き透垣のもとに人のけはひすれば、たれならんと思ふほどに、故宮にさぶらひし小舎人童なり。

 和泉式部日記は、このように語り始めます。

 あおやかな築地の新緑と、その輝きを際立たせる木の下闇。

 初夏の、潤いを含んだ日差しの中に現れた少年の姿。

 

……橘の花をとり出でたれば、「昔の人の」といはれて、「さらば参りなん。いかが聞こえさすべき」といへば、ことばにて聞こえさせんもかたはらいたくて、なにかは、あだあだしくもまた聞こえ給はぬも、はかなきことをも、と思ひて、
   薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたると
と聞こえさせたり。


 故弾正宮為尊親王の弟である帥宮が、小舎人童に言付けた橘には、「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」という古歌を通して、自分には兄、式部には恋人であった、故宮の想い出を語り合いませんかというメッセージが込められています。

 それに対する式部の返しは、いったいどういう意味でしょう。

 角川ソフィア文庫の和泉式部日記の近藤みゆき氏による訳注によれば、この歌は、「いそのかみ古きみやこのほととぎす声ばかりこそ昔なりけれ」という素性法師の古歌を踏まえたものであり、故為尊親王とともに聞いたほととぎすの声が昔のままかどうか、聞いてみたい、というのがこの歌の趣旨なのだそうです。

 でも、「お兄さんと同じかどうか、あなたの声を聞かせてください」という意味にも、取れますよね。

 少なくとも、帥宮の方は、そう解釈して、式部との関係に足を踏み入れます。

   同じ枝に鳴きつつをりしほととぎす声はかはらぬものと知らずや

 自分と兄とは、同じ枝で鳴いていたほととぎすみたいなものだ。声は同じです。兄の愛を受け入れたように、ぼくの愛も受け入れてください。

 

 和泉式部日記という読み物は、日記と称されてはいますが、実は、形式的にも「日記」ではありません。和泉式部であることがあきらかなヒロインは、「女」と三人称で呼ばれますし、その「女」の視線の届かない、帥宮敦道親王家内部でのやりとりも描かれます。

 そういう意味で、この文書の叙述法は、「日記」よりも、つくり物語のそれに近い。実際、伝本には、「和泉式部日記」ではなく「和泉式部物語」という書名を冠するものがあり、中世から近世にかけては、むしろ後者の書名で知られていたようです。

 したがって、執筆者も、和泉式部本人ではなく、第三者であるという説も、根強くありました。例えば、藤原俊成をその作者に擬する見解もあります。

 

 しかし、今日においては、様々な理由から……例えば、助詞「たり」、「けり」の用法の分析などから……その文体は基本的に「私」の体験を語るものであり、そういう意味で、やはり和泉式部本人による日記文学であると考えられているようです。しかも、その成立は、寛弘年間、つまり敦道親王没後まもない時期、失われた恋の記憶が生々しい時期であるという見解が有力です。

 

 わたしは、作者が和泉式部自身であることを疑ったことはありません。しかし、この読み物が純然たる日記ではなく、不特定多数の読者を意識した日記文学であることもまた明らかだと思います。そして、歴史的事実に基づきつつも、おそらくは為尊親王との関係を過度に美化していること、夫道貞の存在には一切触れられていないこと等からは、かなり虚構性の強い読み物であると考えるべきでしょう。

 和泉式部の人生は、後世、仏教説話、謡曲御伽草子等さまざまな形で虚構化されていきますが、もっとも早い時期における虚構化が、この和泉日記であるともいえます。

 もちろん、それはこの日記の文学的価値を減殺するものではありません。

 物語のタイムスパンを、敦道親王から橘の花が届いてから、邸に迎え入れられるまでの、最も濃密な十ヶ月に限定し、それ以外の周辺事情は一切切り捨てる、あるいは二人の関係を深めるためにのみ用いることで、この物語は、日本文学史上随一ともいえる鮮烈な女性像を造形することに成功しています。

 

 はじめて夜をともにした後朝。

 いとわりなきことどもをのたまひ契りて、明けぬれば、帰り給ひぬ。すなはち、「今のほどもいかが。あやしうこそ」とて
   恋といえば世のつねのとや思ふらん今朝の心はたぐひだになし
(帥宮)
 御返り
   世のつねのこととも更に思ほえずはじめてものを思ふ朝は
(和泉)

 

 それから間もない五月五日、宮の「今宵の雨の音は、おどろおどろしかりつるを」との文に応えた歌。

   夜もすがら何事をかは思ひつる窓うつ雨の音を聞きつつ(和泉)

 

 宮から邸入りを請われて、迷いながら迎える霜の朝。

   われひとり思ふ思ひはかひもなし同じ心に君もあらなん(帥宮)
 御返り
   君は君われはわれともへだてねば心々にあらむものかは
(和泉)

 

 日記は、帥宮の北の方が、邸を退去するところで終わります。式部は、建前としては召人として邸に住み込んでいるのであり、本来ならば勝負にもならないはずなのに、そのような常識を覆して、式部は恋の勝利者となりました。
 それは式部が望んだことではありません。帥宮が、非常識なまでに式部を愛してしまっただけです。

 式部は、愛されるが故に、召人でありながら北の方を追い出した身の程知らずの女という誹謗中傷の嵐に耐えなければなりませんでした。

 聞きにくきころ、「しばしまかり出でなばや」と思へど、それもうたてあるべければ、ただにさぶらふも、なほもの思ひ絶ゆまじき身かなと思ふ。

 それから約三年後、帥宮は亡くなります。その間には、式部に対する「けしからぬかた」、「浮かれ女」という評価を決定的にした、葵祭りでの一大ページェントがありますが、そのような晴れがましい場面が、式部自身によって語られることはありません。

 日記に遺されているのは、あくまでも、物思いの絶えない式部の姿であり、それは、後朝の、「はじめてものを思ふ朝」から、この日記の最後の頁まで変わりません。

 この日記を一貫して流れている通奏低音は、「別れの予感」であり、それは、「夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ暮らすほどに…」という書き出しによって、既に予言されているようにも思えるのです。

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