春がすみ 立つやおそきと 山河の 岩間を潜る 音聞こゆなり
(和泉式部正集1)
10世紀末から11世紀初頭の一条朝は、紫式部、清少納言を輩出した国風文化の黄金期でした。そして、この二人の活躍と時を同じくして、さらなる大スターが登場します。それも、当時の文学のメインストリームである和歌の世界に。
公任は、三十六人撰を選ぶ前に、十五番歌合というものを選んでいます。これは30人の歌人から各一首を選抜し、一五番の歌合の形にしたものであり、一番は紀貫之、凡河内躬恒という古今集撰者の組み合わせ、最後の一五番が柿本人麿と山部赤人という万葉歌人の組み合わせになっています。
公任は、紀貫之らを中心とする古今集的歌学の、もっとも正当な後継者でした。
そういった公任の姿勢、人麿よりも貫之を重んじた組み合わせに異を唱えたのが、これまた卓越した文人として知られる中務卿具平親王。公任に、人麿、貫之の優劣論を挑み、人麿・貫之十番歌合を行った結果、人麿圧勝となります。これにより、蒙を啓かれた公任が、新たに、人麿・赤人及び大伴家持といった万葉歌人に目配りしながら選んだのが、三十六人撰であるとされています。
一方、10世紀後半には、いわゆる河原院周辺歌人たちによる新しい試みが始まっていました。いわゆる初期百首の創始と見做されているのが、曽根好忠の百首歌であり、これに触発されて、源順、恵慶法師らの百首歌が続きます。
曽根好忠の百首歌は、春11、夏10、秋10、冬10、恋10、沓冠31、物名20の、正確には102首から構成されており、沓冠31首というのは、冒頭の一文字をつなぐと、「あさかやまかけさへみゆるやまのゐのあさくはひとをおもふものかな」、最後の一文字をつなぐと、「なにはつにさくやこのはなふゆごもりいまをはるべとさくやこのはな」となる勒字歌です。源順の百首歌は、これに応えたもので、沓冠31首の趣向はまったく同じながら、この31首のなかで、春5、夏5、秋5、冬5、恋11を順に詠っていくというさらに凝った構成になっています。
かつて河原左大臣源融が造営した河原院は、当時、約100年を経て葎の宿になっていましたが、そこに集って歌を詠み交わしていた歌人たちは、このような遊戯的な試みや、万葉の歌語の摂取などを通じて、古今集を超える歌の世界を拓きつつありました。
こういった動きの中から出てきた新たなスターが、和泉式部です。
和泉式部の生年は天元元年(978年)頃に比定されており、紫式部と同年代か、やや年下になります。この当時の他の女性同様、どのような少女時代をおくったのかは必ずしも明らかではありませんが、和泉式部正集冒頭に収録されている初期百首歌はかなりはやい時期のものと考えられており、河原院周辺歌人たちの後継者として、あるいは花山院周辺歌人の一人として、若い頃から注目されてきた人ではないかと思われます。
当時の歌壇の評価は、まずは勅撰集に採録されることで示されます。
和泉式部の時代に編まれた拾遺集は、前時代の歌人が中心でしたが、そこでも、和泉式部は既に一首、入選しています。おそらくは、拾遺集に採録されている歌人では最年少でしょう。
冥きより 冥き途にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月 (拾遺集1342)
公任は、息子の定頼に赤染衛門と和泉式部の優劣を問われた際、和泉式部について、「いと、やんごとなき歌詠みなり」と答えたことが、後世の「俊頼髄脳」に伝えられています。
また、公任集には、公任と和泉式部、そして当時の和泉式部の愛人であった敦道親王をも交えた歌の贈答が遺されています。
和泉式部は、清少納言も紫式部も畏れ入らざるを得なかった教養人公任に対して、臆することなく堂々と渡り合える大スターでした。
白河朝の応徳3年(1086年)頃に編まれた後拾遺集では、歌人の顔触れが様変わりし、10世紀後半以降にその活躍が顕著になった女流歌人の作品が大量に採録されます。和泉式部の歌は、この歌集に68首採られており、これはこの歌集の全ての歌人の中で最多です。同時代で並び称された赤染衛門は32首、相模39首、伊勢大輔27首といったところです。
因みに、公任は19首でした。
その後に撰進された、金葉集、詞花集、千載集、新古今集までを八代集といいます。室町時代の新続古今集まで、全部で21選ばれた勅撰集の中で、古今から新古今までの八つは、それ以降のものに比べて重要視されているわけです。
新古今集撰者の一人であり、かつ、百人一首撰者である藤原定家は、八代集採録歌9440首の中から、定家八代抄として1309首を選びました。いわば、ベスト・オブ・ベストとしての私家集です。
最も多く選んだのは柿本人麿で56首、次いで藤原俊成53、西行50、貫之49、在原業平38、そして和泉式部の37首でした。公任はわずかに3首を数えるのみであり、時代を経るごとに、11世紀初頭の歌壇における和泉式部の突出ぶりが顕著になっていきます。
和泉式部が中宮彰子のもとに出仕したのは、寛弘6年(1009年)頃であると考えられています。彰子から、初めて出仕する和泉式部の話し相手を命じられたのは、前年に出仕したばかりの、まだ若い伊勢大輔でした。
いづみしきぶ、ゐんにはじめてまゐりたりしに、ものいへ、とおほせられしに、はづかしきひとにこそさぶらふなれ、いかでか、など申ししかども、よもすがらものいひあかして、つとめて御まへにおこせたりし。
思はむと思ひし人と思ひしに思ひしかともおもほえしかな (85)
とぞある。御ものいみにて、御はらからのきみたちあまたさぶらひたまひて、いとおかしきことにこそ、とて返事せよ、などありしも、わりなき心ちして、
君をわれおもはざりせば我をきみ思はむとしも思はましやは (86)
(伊勢大輔集)
若いとはいえ、伊勢大輔も、大中臣能宣の孫、祭主輔親の娘という歌の家の人であり、当時、既に名のある歌人でした。前年には、「いにしへの奈良のみやこの八重桜けふ九重ににほいぬるかな」という歌で絶賛を浴びています。
そうであればこそ、彰子は和泉式部の話し相手に選んだものと思われますが、その伊勢大輔にして、「え〜、あんな凄い人の話し相手なんて私につとまるかしら、どうしましょう」と困ってしまうくらいに、和泉式部は別格の大物だったわけです。
わりなき心ち、というのは、一般には、道理に合わない、納得できない、どうしようもない、そんな気持ちを表す言葉です。
憧れの歌人和泉式部と一夜語り明かしたこと、そして、翌朝、和泉式部の方から歌が贈られてきたこと。それはおそらく伊勢大輔にとって特別な体験だったのではないでしょうか。たまたま物忌みのためにその場にいた姉妹たちが、それを知って囃し立てた。
えーっ、あの和泉式部が! 歌をくれたの? すごいじゃん、大輔! さっそく歌を返さなきゃ!
どうしよう、どうしよう。下手な歌を返して笑われたらどうしよう。だって、相手は、あの和泉式部なのよ。もう、みんな、わたしの気持ちも知らないで……。
そんな感じでしょうか。