趣味
2026/11/03

週刊百人一首000〜謎の詞華集

 百人一首について、書いてみようと思います。

 次回から、週に1回、一首ずつ、というか、1人ずつ。

 

 伯母さんはまた百人一首の歌をすつかりそらんじてゐて、床へはひつてから一流のものさびしい節をつけて一晩に一首二首と根気よくおぼえさせた。伯母さんが
「たちわかれ」
といふ。私が
「たちわかれ」
とあとをつく。
「いなばのやまの」
「いなばのやまの」
「みねにおふる」
「みねにおふる」
 そんなにしてるうちにいつか寐入つてしまふ。よくおぼえたときは
「あした御褒美をあげるにまあねるだよ」
といつて叩きつけてねせてくれる。私が歌をはやくおぼえるのをたいへんなえらい子ででもあるかのやうに思つて伯母さんは明る日母などに
「ゆんべはふたあつもぢつきにおぼえた」
なぞと自慢らしく話したりした。私はわからぬながらも歌のなかの知つてる言葉だけをとりあつめて朧げに一首の意味を想像し、それによみ声からくる感じをそへて深い感興を催してゐた。

(中勘助 「銀の匙」)

 

 わたしにはこんな教養のある家族はいなかったので、百人一首を憶えたのは高校時代、校内の百人一首大会に出場することになってからのことです。

 意味もよく分からないまま、ただ、決まり字に反応して躰を動かす練習を、一月ほど繰り返したでしょうか。しかし、読書百遍意自ずから通ずという言葉のとおり、何度も何度も繰り返し聞いていれば、意味が理解できたような気になってくるものです。その理解が正しいかどうかは別として。

 そしてわたしは、いつしか、眠れぬ夜には、羊を数える代わりに百人一首を唱えるという生活習慣を身につけました。銀の匙の主人公と伯母さんと、一人二役を演じながら、自らを寝かしつける。羊代わりのものは他にいくつかあるのですが、最も高頻度でお世話になったのは百人一首でした。

 それから、50年近く経とうとする今でも、そうです。

 

 小倉百人一首という詞華集が一般に知られるようになったのは、室町時代後期に宗祇が百人一首抄という形で紹介してからのことであり、江戸時代に木版画技術が発展したことによって絵入り歌カルタの形で庶民の遊戯として普及したということのようです。

 宗祇は、百人一首を藤原定家の撰によるものとし、その事情をこう説明します。

 

 新古今集は花を本として実を忘れたるにより、定家の心にかなはず、されば古今の百人の歌をえらびて、小倉山荘の障子に書き置かれたり。(百人一首抄 序文)

 

 新古今集の撰者は、定家のほか、藤原公経、同家隆、同雅経、同有家、寂蓮法師です。こういった撰者の間には、もちろん、意見の違いもあったでしょう。その上にまた、この歌集の編纂を命じた鳥羽上皇が、最終的な決定者として君臨していました。鳥羽上皇と定家との間の、歌道を巡る確執も伝えられています。定家にしてみれば、最終的にできあがった新古今集は、決して自分の意に沿うものではなかった、だから、自分1人の思うままに、この百人一首という詞華集を編んだのだ、というのが宗祇の見方です。

 

 定家自身の日記である明月記には、その事情に関係すると思われる記事が一つだけあります。

 

 予、本より文字を書くことを知らず。嵯峨中院障子の色紙形、故に予書く可き由、彼の入道懇切、極めて見苦し事と雖も、憖いに染筆して之を送る。古来の人の歌各一首。天智天皇自り以来、家隆雅経に及ぶ。 (明月記文歴二年五月二七日条)

 

 ここで、入道と呼ばれているのは、定家の息子為家の舅にあたる宇都宮入道蓮生。文歴二年は、西暦1235年にあたります。

 この記事の限りでは、蓮生が定家に求めたのは撰歌ではなく揮毫であるようにも読めます。そのため、百人一首を撰んだのは蓮生であって、定家はそれを色紙に書いて送っただけだと考えられていた時期もありました。

 その理由の一つは、この百人一首のラインナップは、定家という当代随一の歌学者が撰んだにしては偏りがあるのではないかという疑問があったからです。宗祇も、百人一首抄の中で、「この百首の中には、さのみすぐれぬ歌もまじはれり。これは歌のよしあしばかりをもて撰ばれたるにはあらず」と評しています。

 歌学者定家ではなく、好事家の蓮生が自分の好みで撰んだのであれば、それはそれで説明がつく。

 

 しかし、昭和26年、京極黄門撰と明記された百人秀歌の写本が発見されました。

 京極黄門というのは、中納言定家。その百人秀歌は、百人一首と97首まで一致しています。こうなると、定家以外の人物が、自分の好みで百人一首を撰んだとは、ちょっと考えられません。

 しかも、そこには、「上古以来の歌仙の一首、思ひ出づるに随ひて之を書き出だす。名誉の人、秀逸の詠、皆之を漏らす。用捨は心に在り。自他傍難有るべからざるか」との奥書が付されていました。

 後代、「この百首の中には、さのみすぐれぬ歌もまじはれり」と批判されることも織り込み済みで、さきに、「用捨は心に在り」と開き直っているかのようにも思えます。

 

 この百人秀歌の発見により、やはり、百人一首は定家の撰によるものだという説が固まったようです。しかし、百人一首と百人秀歌がどのような関係にあるのかについては諸説あります。百人一首の末尾にある後鳥羽院と順徳院の二首が、百人秀歌では欠けていることからすれば、おそらくは承久の乱(1221年)後の政治情勢がそこに関わっているのであろうとは思われますが、さて、どちらが元の形なのか。また、定家が蓮生に送ったという「天智天皇自り以来、家隆雅経に及ぶ」という色紙と、この二つの詞華集とはいかなる関係になるのか。

 

 これほど親しまれていながら、意外と謎の多い、百人一首。

 しかし、考えてみれば、800年も前のことなんて、分かっていることの方が少ないわけで、謎が多いのは意外でも何でもないのかもしれません。

 だから、分かったようで分からないあんなことやこんなことを書こうと思えば、それなりに書くことがあるのではないか。百首の中には何を書けばいいか思いつかない歌もありそうなのですが、その歌に辿り着く頃には、わたし自身も成長して、なにか書くことができるかもしれない。

 そんなわけで、週刊百人一首、はじめます。

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