紫式部は、同時代において既に歌人として高く評価されていた和泉式部について、その消息文で、「恥ずかしげの歌詠みやとはおぼえ侍らず」と断じています。つまり、こちらが恥ずかしくなるほどの立派な歌詠みだなんて思っておりませんことよ、というわけです。紫式部は、物語作者としてだけではなく、歌詠みとしても、満々たる自信を持っていました。
しかし、公任撰によると思われる後十五番歌合には、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔のほか、歌なんか詠みたくないんだという清少納言まで入っているのに、紫式部は入っていません。
また、同時代の和泉式部が68首、赤染衛門が32首、後輩の伊勢大輔が27首、相模が39首入選している後拾遺集で、紫式部の入選は3首のみです。その後の詞花集、金葉集にも、紫式部の名はありません。
紫式部の自信にもかかわらず、同時代から院政期にかけて、紫式部の歌人としての評価は、決して高くなかったようです。
源氏物語の、初の現代語訳を成し遂げた与謝野晶子は 紫式部の歌を絶賛しています。
彼女以前の国文和歌に精通し、其の文章が前古に無い妙文を創始して天衣無縫の完成を示したのみならず、其歌もまた「源氏物語」に多くの創作を挿んで、他の歌人の歌の単調膚浅ものと異なり、堂々たる大家の作である。昔も今も彼女の「歌集」の歌だけ見て彼女の歌を貫之、和泉式部、西行などの遙かに下に置くのは大間違いの批評である。「源氏物語」の歌ほどの各種多様な佳作を自由に空想を以て成し得た大歌人は古の人麻呂を除いて私は外に知らない。
(与謝野晶子 紫式部新考)
俵万智さんも、「残されたものを読む限りでは、私自身は圧倒的に和泉式部の歌が好きだ」といいながら、源氏物語の作中歌を高く評価しています。
七九五首の和歌を、それぞれの人物の状況と才能に応じて歌い分けるという技倆。その「成り代わり」の技においては、紫式部はおそろしいほどの力を持っていた。七九五首は七九五種でもあるのだ。
(俵万智 愛する源氏物語)
例えば、宇津保物語は、源氏物語の約半分程度の長さの中に、800首以上の和歌を含んでいます。しかしその多くは唱和歌と呼ばれるものであり、詠み手の個性もまったく感じられませんし、物語の展開ともあまり関係しません。源氏物語の作中歌に発揮された紫式部の能力は、明らかに空前のものであり、おそらくは、後期物語の狭衣物語や夜半の寝覚も、源氏物語の域には遠く及びません。
しかし、源氏物語のようなつくり物語の中で、作中人物が詠んだ歌は、当時、本当の歌とは見做されていませんでした。源氏物語の歌のみならず、宇津保等の前期物語、狭衣等の後期物語の作中歌も、勅撰集には採られていません。
実は、和泉式部日記の歌も、詞花集までの勅撰集には含まれておらず、千載集にいたって初めて採録されます。それはおそらく、この日記の享受のされ方が揺れ動いていたことを示すものではないかと思います。
源氏物語の中で詠まれた歌がどれほど優れていようとも、それは「本当の歌」とは截然と区別されるべきものでした。
紫式部が、歌詠みとして評価されるようになるのは、鎌倉時代に入って、藤原俊成、定家の御子左家が歌壇の中心を占めるようになってからです。
建久3年(1192年)の六百番歌合で九条良経の詠んだ「見し秋に何を残さん草の原ひとつに変わる野辺のけしきに」という歌の、「草の原」という言葉に、「聞きよからず」という参加者の批判が集中した際、判者の俊成は、次のように述べて、良経の歌を擁護しました。
左、「何に残さん草の原」といへる、艶にこそ侍めれ。右方人、「草の原」、難申之条、尤うたたあるにや。紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝也。其上、花の宴の巻は、殊に艶なる物也。源氏見ざる歌詠みは遺恨事也。
あんたら、良経はんの「草の原」が聞きにくい言うけど、源氏物語の花宴帖で、朧月夜が詠んだ「憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ」という歌を知らんのか。歌詠みの端くれなら、源氏物語くらい読んどきや! という感じでしょうか。
この俊成の判詞は、当時の歌壇の第一人者が、「源氏物語」を歌語の典拠として認めた画期的なものと位置づけられています。
春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるるよこぐもの空(新古今集春歌上38)
定家の代表作の一つとされるこの歌の、「夢の浮橋」も、源氏物語の帖名に由来するものと考えられます。
時期的にははっきりしませんが、おそらく、この六百番歌合の後、新古今集成立より前に、良経は、定家に、源氏物語の作中歌を中心とした歌合という企画を命じます。定家は、まず源氏物語から百首、狭衣物語から百首を撰んで百番歌合を編み、次いで、源氏物語の別の百首に、御津の浜松、夜半の寝覚、とりかへばやなど複数のつくり物語から撰んだ百首を番わせて物語二百番歌合としました。
俊成以来の御子左家の取り組みが、つくり物語の中に埋もれていた歌を発掘し、紫式部の歌詠みとしての一面にスポットを当てたといえます。また、「本当の歌詠み」としても、俊成撰の千載集に9首、定家撰の新古今集に14首採録され、評価が確立しました。
俊成、定家というのは、日本文学史上有数の歌学者であり、彼らによる高い評価は、紫式部日記で語られた強烈な自負が、彼女の独りよがりではなかったことを裏付けるものと言えそうです。
定家の跡を継いだ為家は、後嵯峨院の后であった大宮院の依頼を受けて、竹取物語以来の二百余りのつくり物語から、作中人物の詠んだ歌を撰び、勅撰集風に構成した、「風葉和歌集」を編纂しています。ここに取り上げられているつくり物語の多くは、既に散逸して読むことかないませんが、この歌集に収録された歌と、その詞書から、それぞれの物語を想像するというのは、なかなかに楽しい読書です。
紫式部は、物語歌の世界という、まことに実り豊かな沃野の開拓者でもあったと言えます。