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2025/07/01 2025/07/02

気管切開孔のスピーチカニューレからの痰の吸引中に、痰詰まりによる呼吸停止から心肺停止となり、自己心拍は回復したものの、低酸素脳症後遺症で植物状態となってしまった事例(訴訟前の示談)

 Aさんは83歳男性、半年前に、脳動脈破裂によるくも膜下出血に対して、B病院でコイル塞栓術を施行、術後、上気道閉塞や誤嚥性肺炎のリスク管理のために気管切開が行われ、本件当時は、スピーチカニューレを挿入して、C病院でリハビリテーション中でした。他方、尿管結石による腎盂腎炎を繰り返しており、今回は、TUL(経尿道的尿路結石破砕術)のために、C病院からB病院泌尿器科に転院したところでした。

 その日、看護師が気管切開孔に挿入されたチューブに吸引器を挿入して痰を吸引しようとしたところ、挿入困難であったため、口腔内、鼻腔内からの吸引をしているうちに、Aさんは徐々に閉眼、呼びかけに反応しなくなっていきました。

 頸動脈の拍動も触知できなくなり、胸骨圧迫を開始。救命センターから駆けつけてきた医師の指示により、気管切開カニューレを交換し、新しいカニューレにバッグバルブマスクを接続して酸素を投与し、胸骨圧迫開始から約25分後に自己心拍は再開しました。

 救命医は、次のようにカルテに記載しています

 泌尿器科のU医師より診察依頼あり、西〇階訪問。

 ベッド上で胸骨圧迫実施中。

 BVM(バッグバルブマスク)あるがスピーチカニューレが入っており換気できない。

 吸引チューブがうまく入らず気道閉塞している様子。

 現場混乱しており、スピーチカニューレの内筒や蓋の所在ははっきりしない……スピーチカニューレ入れ替え。先端部分は喀痰で閉塞しており、入れ替え後は換気良好。

 本件で使用されていたのは、カフ付きのスピーチカニューレです。

 誤嚥性肺炎を防ぐためには、カフを膨らませて、カニューレと気管壁の隙間を無くし、口腔内分泌物が気管に流入しないようにする必要があります。この状態では発声は不能です。

 いくらか誤嚥のリスクはあるけれど、リハビリテーションや家族とのコミュニケーションのために発声をさせたいという場合に使われるのが、カフ付きのスピーチカニューレです。チューブの部分が二重構造となっていて、外筒の背側には呼気が抜けるための側孔が開いており、発声する際には、内筒を抜いてスピーチバルブを装着します。

 カフが膨らんだ状態でカニューレが痰で閉塞してしまえば、気道は完全に閉塞することになり、呼吸はできません。

 この場合、痰の詰まったカニューレを抜去して、気管切開孔を手で塞ぎ、口と鼻にマスクを当ててアンビューバッグを押せば、肺に酸素を送り込むことができます。実は、カニューレを抜去しなくても、カフの空気を抜けば、カニューレと気管壁との間にスペースができるので、そこを通じて空気を送り込むことができます。

 本件では、Aさんの意識が消失した段階で、医師3名と看護師2名が応援に駆け付けていますが、依然として、「気管切開カニューレからは吸引できず、鼻腔・口腔内から吸引」といった措置が行われています。

 吸引器が挿入できない時点で、カニューレの閉塞は認識できたはずです。カニューレが閉塞しているのに、鼻腔内や口腔内の吸引をして、いったいどんな意味があるでしょうか。

 また、救命医のカルテの記載からすれば、泌尿器科のスタッフは、痰で閉塞したカニューレにアンビューバッグを繋いで酸素を送ろうとしていたようです。聴診すれば肺に酸素が入っていないことはすぐ分かったはずですし、そもそもバッグが硬くて押せなかったのではないでしょうか。

 この救命医が到着するまで、誰も、この気管カニューレを抜去する、あるいはカフを抜いて気道を確保するということに思い至らなかったのです。

 おそらく、現場にいたスタッフの誰か一人でも、このような症例を経験していれば、大事に至らなかった事件ではないかと思われます。

 現在、医療法上の医療事故調査制度は、死亡あるいは死産の事例しか対象にしていませんが、このような重大な後遺症事案も制度の対象として、事故情報の共有と再発防止策の検討が行われるべきではないかと思います。

 

 この事件は、B病院が責任を認め、慰謝料の支払い以外に、「本件に起因してB病院で受ける治療費のうち、自己負担部分の支払いを免除する」、「B病院は、引き続きA氏に対する入院治療において最善を尽くし、転院が可能となった場合には転院先を探し紹介する」といった条項を含む訴訟前の示談が成立しています。

 

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