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2026/02/13

中宮定子①〜枕草子に描かれた出会い

 清少納言が、定子の許に出仕したのは、正暦4(993)年と考えられています。定子は17歳、清少納言は20代後半だったようです。

 

 宮にはじめてまゐりたるころ、ものはづかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々まゐりて、三尺の御几帳の後にさぶらふに、絵などと取り出でて見えさせたまふを、手にてもえさし出まづまじう、わりなし。「これは、とあり、かかり。それか、かれか」などのはまはす。高坏にまゐりらせたる御殿油なれば、髪の筋なども、なかなか昼よりもけそうに見えて、まばゆけれど、念じて見などす。いとつめたきころなれば、さし出させたまへる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅なるは、限りなくめでだしと、見知らぬ里人ごこちには、かかる人こそは世におはしましけれと、驚かるまでぞ、まもりまゐらする。

(第一七九段 宮にはじめてまゐりたるころ)

 

 清少納言といえば、誰から何を言われても物怖じせず、気の利いた切り返しで相手を唸らせるといったイメージがありますが、その清少納言も、出仕したばかりの頃は、「ものはずかしきことの数知らず」で涙を流していたというのは意外です。

 しかし、それにもまして印象的なのは、その清少納言に対して、絵など取りだして見せて、「これはこうなのよ、ああなのよ」などとコミュニケーションを試みる定子の姿ではないでしょうか。

 こんな人が、この世にいるんだと、驚きながら、定子の美しい手を見つめる清少納言。寒い季節で、その手は、薄紅梅に色づいていました。

 

 

 ものなどおほせられて、「我をば思ふや」と問はせたまふ御答へに、「いかがは」と啓するにあはせて、台番所の方に、はないと高うひたれば、「あな心憂。そら言を言ふなりけり。よしよし」とて奥に入らせたまひぬ。いかでかそら言にはあらむ、よろしうだに思ひきこえさすべきことかは、あさましう、はなこそそら言はしけれ、と思ふ。

 わたしのこと好きだなんて言うけど、ウソなのね、まあ、いいわ、と去っていく定子の茶目っ気と、本気でうろたえる清少納言の姿がとても印象的です。

 折悪しくクシャミをした人をうらめしく思いながら、何も言えずに局に下がった清少納言に、定子から、浅緑の薄い紙に書かれた手紙が届きます。

 

「 いかにしていかに知らまし偽りを空に糺すの神なかりせば

となむ、御けしきは」とあるに、めでたくもくちおしうも思い乱るるにも、なほ昨夜の人ぞ、ねたく、にくままほしき。

  薄さ濃さそれにもよらぬなゆゑに憂き身のほどを見るぞわびしき

なほ、こればかり啓し直させたまへ。式の神もおのづから。いとかしこし」とて、まゐらせて後にも、うたておりしも、などでさはありけむと、いと嘆かし。

 

 清少納言は、定子の教育係として選ばれて出仕したのだという言説を時折見かけます。

 定子サロンに出仕する前の清少納言についての情報は極めて僅かです。紫式部の場合、紫式部集の詞書から彰子サロンに出仕する以前の来歴をある程度辿ることができますが、清少納言集には、その手がかりがほとんどありません。枕草子にも、出仕前の自らを語った部分はほとんどありません。敢えていえば、第三二段「小白河といふところは」くらい。

 だから、清少納言が定子の教育係として選ばれた、という言説には、おそらく文献的な根拠はなく、ただ、曾祖父が深養父、父が元輔という歌の家に生まれたという出自に加え、枕草子に鏤められた漢文の素養などから、なんとなく、そう思われているだけなのではないでしょうか。

 その想像には、ある程度の理由がある、と思います。

 角川ソフィア文庫「紫式部日記」の解説で、山本淳子さんは、彰子サロンに仕えていた女房たちを、女房としてのキャリアを形成し女房実務に長けた女房層女房、家が零落して女房勤めに身を窶した零落女房、和歌など文芸の才により抜擢された才芸女房の3タイプに分類しています。才芸女房の典型が紫式部であり、続いて、伊勢大輔、和泉式部といった才芸女房が相次いで彰子サロンに出仕することになりました。

 このような彰子サロンのオルガナイザーは、彰子の母である倫子付きの女房であった赤染衛門だったのではないかと思われます。そして、彼女が範としたのが、清少納言を擁する定子サロンであったことは間違いないでしょう。

 そういう意味では、清少納言こそが、才芸女房のはしりであったということになりそうです。

 

 しかし、だからといって、清少納言が定子の教育係であったと考えるとすれば、それは飛躍というものです。

 紫式部は、彰子に「白氏文集」を進講したことをその日記の消息体に書き残しています。つまり、紫式部の場合、彰子の教育係としての役割を担っていたといえます。

 そういった紫式部と彰子との関係を、清少納言と定子との関係にスライドさせたのが、清少納言は定子の教育係だったという言説だと思われますが、残された資料でみる限り、この二つのペアの関係性は、まったく似ていません。そもそも、教育係が、生徒に向かって、「わたしは歌なんか詠みたくないんです」と駄々を捏ねるなんて、考えられませんよね。

 清少納言は、才芸女房であったかもしれませんが、決して、教育係ではありませんでした。むしろ、立場は逆であったように思われます。このうら若い中宮は、17才にして既に、10才ほど年長の才芸女房を教育するだけの教養と機知とを備えていたようです。

 清少納言は、定子と出会うことによって、その才能を開花させたのではないでしょうか。

 定子という女性がいなければ、枕草子という作品が生み出されることはなかったし、清少納言の名前が後世に残ることもなかったはずです。

 

 

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