清少納言が中宮定子に仕えていたこと、枕草子のそこかしこに中宮定子の姿が描かれていることは、もちろん知っていました。一方で、父親である関白道隆の死と、長徳の変による兄伊周の失脚で中関白家が崩壊し、中宮定子が悲劇的な晩年をおくったという日本史的な知識も持っていました。
だから、この中関白家の崩壊及び中宮定子の悲劇が、枕草子にどのように描かれているか、そういった関心を抱くのは自然なことに思えます。それなのに、ミアのエッセイを読むまで、それを頭に浮かべたことがありませんでした。
迂闊といえば、まことに迂闊というほかありません。
しかし、それも理由のないことではないのです。
清少納言は、そういったことは、一切、書いていないのですから。
2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」でも描かれたのではないかと思いますが(わたしはほとんど観ていません)、定子の父である関白道隆が長徳元年(995年)に亡くなって以降、中関白家の運命は暗転します。
定子の兄である伊周は、叔父道長との権力争いに敗れた挙げ句、花山法皇に矢を射かけるという事件を起こし、太宰権帥として配流されることになったばかりか、配流を拒んで検非違使から追捕される立場にまで身を堕としてしまいました。
息子の配流に同行することを望んで許されなかった母貴子も、悲嘆のうちに世を去ります。
夜の鶴 都のうちに 籠められて 子を恋つつも 哭きあかすかな (詞花集340)
彼女の才を、「少々のをのこには勝りてこそ聞こえはべりしか」と伝えた大鏡は、その記述をこう続けています。「女のあまりに才かしこきは、ものあしと人申すなべに、この内侍、のちにはいといみじう堕落せられにしも、そのけとこそおぼえはべりしか」(大鏡 内大臣道隆)
定子は、検非違使の追及から兄伊周をかばい、追い詰められた末に落飾。
それでも一条帝の愛は冷めず、内裏東隣の職御曹司を居所として中宮の地位を保ちますが、「天下不甘心」(天下甘心せず)と批難され、第一皇子敦康親王を出産しても、「横川の皮聖」(出家らしからぬ出家)と揶揄されるような立場となります(小右記)。
そして、長保元年(999年)には、道長の娘である彰子が入内、定子が出家の身であり、皇后としての宮中神事を主宰できないことを理由に、定子と並び立つ皇后に冊立されます。
そういった、定子の苦境を、清少納言は、一切、描いていません。
日本最古の文芸評論として知られる『無名草子』(藤原俊成女)は、清少納言をこう評しています。
その『枕草子』こそ、心のほど見えて、いとをかしう侍れ。
さばかりをかしくも、あはれにも、いみじくも、めでたくもあることども、残らず書き記したる中に、宮のめでたく盛りに、時めかせ給ひしことばかりを、身の毛も立つばかり書き出でて、関白殿失せさせ給ひ、内大臣流され給ひなどせしほどの衰へをば、かけても言ひ出でぬほどのいみじき心ばせなりけむ人の、はかばかしきよすがなどもなかりけるにや。
定子の素晴らしさを「身の毛もたつばかり」描き出す一方で、中関白家の没落を一切感じさせない清少納言の「心ばせ」、なんといみじきことか!
ちょっと、「はかばかしきよすがなどもなかりけるにや」が気になるところですが、その点は、また、いずれ。
とはいえ、長徳の変の影響が感じられる章段がないわけではありません。
殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来、騒がしうなりて、宮もまゐらせたまはず、小二条殿といふ所におはしますに、なにともなく、うたてありしかば、久しう里にゐたり。御前わたりのおぼつかなきにこそ、なほえ絶えてあるまじかりける。………げにいかならむと、思ひまゐらする。御けしきにはあらで、さぶらふ人たちなどの、「左の大殿方の人、知る筋にてあり」とて、さし集ひものなど言ふも、下よりまゐるを見ては、ふと言ひやみ、放ち出でたるけしきなるが、見ならはず、にくければ、「まゐれ」など、たびたびあるおほせ言も過ぐして、げに久しくなりにけるを、また、宮の辺には、ただあなた方に言ひなして、そら言なども出で来べし。
(枕草子第一三八段 殿などのおはしまさで後)
関白道隆が亡くなった後、いろんなことがあって、なんとなくいやになって、しばらく出仕せず実家にいた、と清少納言はいいます。それは、清少納言が、「左の大殿」つまり中関白家を追い落とした張本人である道長方と通じているのではないかと疑う人たちが、定子のまわりに少なからずいたから。
しかし、この章段で、清少納言がほんとうに書きたかったのは、そういう憂き世のゴタゴタではなく、そんなことに挫けない凜とした定子の姿と、その定子に対する想いなのでした。
例ならず、おほせ言などもなくて日ごろになれば、心細くてうちながむるほどに、長女、文を持て来たり。「御前より、宰相の君して、忍びて賜はせたりつる」と言ひて、ここにてさへ、ひき忍ぶるも、あまりなり。人づてのおほせ書きにはあらぬなめり、と、胸つぶれて、とくあけたれば、紙には、ものも書かせたまはず、山吹の花びらただ一重だけを包ませたまへり。
(前同)
定子から届いた山吹の花びらに書かれていた言葉は、「言はで思ふぞ」。
山吹の花色衣主や誰問へど答へずくちなしにして
心には下行く水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる
まわりから疑われていることなんて気にしてもしょうがない、定子さえ信頼してくれればそれでいい。
ひさしぶりに出仕して、遠慮がちに几帳の陰に隠れているところを、「あれは、今まゐりか」と定子から揶揄われたことを、清少納言はとても嬉しそうに書き留めています。