趣味
2026/04/28

紫式部②〜越前下向

 紫式部の生年には諸説あって、もっとも早い説で天禄元年(970年)、遅い説で天元元年(978年)といったところです。「光る君へ」の時代考証を担当していた倉本一宏さんは、講談社新書の「紫式部と藤原道長」で、とりあえず天延元年(973年)説を採っていましたが、「特に決め手はない」とのこと。

 

 紫式部の人生の絶対年代が比定できるのは、長徳2年(996年)からです。この年、父為時が、越前守に任ぜられ、紫式部は父とともに越前に下ります。このとき、彼女は26歳だったのか、18歳だったのか。

 

 一条院の御宇、源国盛、越前守に任ず。その時、藤原為時、女房に附し書を献ず。その状にいはく「苦学寒夜紅涙霑袖 除目春朝蒼天在眼」と云々。天皇これを覧、あへて御膳を羞めず。夜の御帳に入り涕泣して臥し給ふ。左相府参入し、そのかくごときを知る。たちまちに国盛を召し、辞書を進めしめ、為時を以て越前守に任ぜしむ。国盛の家中、上下涕泣す。国盛これより病を受け、秋に播磨守に任ずといえども、なほこの病により、遂に逝去す、と云々。

古事談:為時、書を献じ越前の守に任ずる事

 

 

 ここで天皇というのは一条天皇、左相府というのは藤原道長のことです。道長が左大臣になるのは、この年の7月のことであり、為時の人事に介入した時点ではまだ右大臣だったのではないかとも思われますが、いずれにせよ、長徳の変によって、道長が最高権力者になった直後の出来事であることは間違いありません。

 それにしても、いくら素晴らしい漢詩を献じたからといって、それで一旦行われた除目を覆すというほどの効果があるのでしょうか。本当だとすれば、それだけ教養が大事にされたいい時代であったともいえますし、権力者の気まぐれな朝令暮改がまかり通ったひどい時代だったともいえそうです。

 

 塩津山といふ道のいとしげきを、賤の男のあやしきさまどもして、「なほからき道なりや」と言ふを聞きて

   知りぬらむ 行き来にならす 塩津山 世にふる道は からきものぞと

 

 紫式部が、越前下向途中に、琵琶湖北岸の塩津山にて詠んだ歌。

 ぼくは、この歌を最初に目にしたとき、人足たちが、「いつ通っても難儀な道じゃわい」と愚痴を言っているのを耳にした式部が、「この人たちは、この世を過ごすことが、この道のように辛いものであることをよく知っているのだろうなあ」と、その労苦に共感を示した歌だと思っていました。でも、どうやら、「人足たちよ、おまえたちも、生きていくことはこの難儀な道を通るように辛いことだと知っているであろうに」という解釈になるみたいですね。「いまさら愚痴を言ってどうする」ということなんでしょうか。なんだか、すごく上から目線に思えますが、当時の身分制度を考えれば、これが自然な態度なのかもしれません。受領の娘といえば、公卿のような上流貴族ではないにせよ、やっぱり貴族は貴族なので、下々に共感するということは考えにくい。

 そういう意味では、清少納言も同じです。よく挙げられるのは、「にげなきもの、下衆の家に雪の降りたる。また月のさし入りたるも口惜し」(枕草子第四五段 にげなきもの)という文章ですが、第二九八段(僧都の君の御乳母のままなど)で、火事で焼け出された下衆に示す態度も、それはそれは冷たいものです。

 彼女たちの感性を、いまのわたしたちの倫理観で評価してもしかたないみたいですね。

 

 紫式部は、約1年半を父の赴任先である越前で過ごします。

 その間、後に夫となる藤原宣孝との贈答が、紫式部集に残されています。

 

 年かへりて、「唐人見に行かむ」といひけたりる人の「春は解くるものといかで知らせたてまつらむ」といひたるに、

  春なれど 白嶺のみゆき いやつもり 解くべきほどの いつとなきかな

 

 年が明けたら、唐人を見に、越前に出向きましょうかね、春になれば雪も解けるし、あなたの心も……という宣孝の口説き文句に、いえいえ春になっても雪は積もるばかりで雪解けの目処はたちません、というのが式部の返事。

 

 ここで、注目したいのは、越前は唐人のいる国と位置づけられていることです。

 院政期に成立したと考えられている日本記略という史書には、長徳元年(995年)に、若狭国に宋の商人70人余りが漂着し、越前国に移された、という記事があるようです。越前は、8世紀から10世紀にかけて約200年間続いた渤海国との交流の窓口になった土地であり、敦賀には渤海国使を迎えるための松原客館という施設がありました。

 為時が越前守に抜擢されたのも、この宋の商人たちとの対応のためだったと考えれば、漢詩でその地位を得たことも頷けます。

 

 式部と唐人たちとの間に交流があったかどうかは分かりませんが、物語の主人公の将来を渤海国使が予言するという構想はこの越前時代に芽生えたのではないか、また、物語の至るところに鏤められた唐物の衣装や調度に対する蘊蓄も、この越前時代に培われたものではないかとの見方があります。

© 九州合同法律事務所