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2026/05/09

紫式部③〜藤原宣孝という男

 枕草子の中には、身分の高い人でも粗末な服装でお参りするのが通例の御嶽精進に、とんでもなく派手派手しい衣装で詣った型破りな男の姿が描かれています。

 

 …なほいみじき人と聞こゆれど、こよなくやつれてこそ詣づと知りたれ、衛門の佐宣孝といひたる人は、「あぢきなきことなり。ただよき衣を着て詣でむに、なでふことかあらむ。かならず、よもあやしうて詣でよと、御嶽さらにのたまはじ」とて、三月のつごもりに、紫のいと濃き指貫、白き襖、山吹のいみじうおどろおどろしきなどを着て、隆光が主殿の亮なるには、青色の襖、紅の衣、摺りもどろかしたる水干といふ袴を着せて、うち続き詣でたりけるを、帰る人も今詣づるも、珍しうあやしきことに、すべて昔よりこの山にかかる姿の人見えざりつと、あさましがりしを、四月の朔日に帰りて、六月十日のほどに筑前の守の辞せしになりたりしこそ、げに言ひけるに違はずも、と聞こえしか。

枕草子第115段「あはれなるもの」

 

 この出来事は、宣孝が筑前守に任じられた正歴元年(990年)のことのようですが、「衛門の佐」という肩書きから、書かれた時期は、宣孝が右衛門権佐兼検非違使となった長徳4年(998年)以降と考えられます。この年、宣孝は、越前から帰京した紫式部を妻に迎え、翌長保元年(999年)、式部との間に、娘賢子(後の大弐三位)を儲けています。

 記事に登場する隆光というのは、宣孝の息子で、おそらく紫式部と同年代。つまり、式部と宣孝は、親子ほど年が離れていました。

 

 前回紹介した「春なれど」の歌以降、紫式部集には、宣孝とのやりとりらしき歌が続きます。

 

 近江守の娘懸想ずと聞く人の、「二心なし」など、つねにいひわたりければ、うるさくて

  水うみの 友呼ぶ千鳥 ことならば 八十の湊に 声な絶えそ

 

 

 結婚する前の歌なのか、それとも後なのか、とにかく宣孝は、近江守の娘にも言い寄っていたわけですね。枕草子の記事でもわかるとおり、宣孝には既に妻子がいました。紫式部は4人目の妻ではないかと考えられています。

 式部との結婚後に、他の女性に言い寄ることも、当時の男性としては珍しいことではありません。しかし、式部と二人の時には、「おまえだけだよ」なんて言うから、腹が立つ。

 もう、いっそのこと、あちこちの湊の女性に、絶え間なく声をかけたらどうなの、と突き放す式部。

 

 歌絵に、海人の塩焼く図を書きて、樵り積みたる投木のもとに書きて、返しやる

  四方の海に 塩焼く海人の 心から やくとはかかる なげきやを積む

 

 この詞書き、現代語訳を読んでも、わたしには意味がよく分からないのですが、素直に読めば、まずは宣孝からの歌かなにかが送られてきて、それに対して、式部が、薪を積み上げた側で塩を焼いている海人を描いた絵に、この歌を添えて返した、ということなんでしょうね。

 歌意は、あなたの嘆きは、浮気の結果だから自業自得ですわよという解釈が一般で、確かにこの前後の流れからすると、そんな感じです。でも、前後を切り離して、この詞書きと歌だけを読むと、宣孝の浮気に嫉妬する式部の嘆きを伝えているようにも思えないではありません。

 

 文の上に、朱というものをつぶつぶとそそきかけて、「涙の色な」と書きたる人の返りごとに

  紅の 涙ぞいとど うとまるる 移る心の 色に見ゆれば

 もとより人のむすめの得たりける人なり

 

 手紙に、朱を点々と散らして、わたしはあなたを思って血の涙を流しているよと訴えてきた宣孝に対して、そんな涙の色を見るとますますイヤになります、紅なんて移ろいやすい色なんだから、という歌。もともと他の女と結婚している人なんだものね、と自分に言い聞かせるように、付け加えます。

 

 こういったやりとりから浮かび上がるのは、宣孝の軽妙洒脱な男ぶりです。清少納言が描いた御嶽精進のエピソードもそうですが、手紙に朱を散らして、わたしの涙の色ですなんて、人を喰っているようでいて、どこか憎めない、そういう魅力的な人物だったのではないでしょうか。

 きっと、モテたことでしょう。

 

 宣孝は、長保3年(1001年)没。式部との結婚生活は3年弱でした。

 しかし、あちこちの女性に声をかけて、いろんな場面で、「二心なし」と誓っていたであろうこの宣孝の姿は、光源氏という日本文学最大のヒーローの中に、千年の時を超えて息づいているように思われます。

 

 

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