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2026/07/06

藤原公任②〜平安期のベストセラー和漢朗詠集

 醍醐朝では紀貫之らを撰者とする古今集、村上朝では清原元輔らを撰者とする後撰集という勅撰集が編まれました。

 それに次ぐ勅撰集とされているのが拾遺集なのですが、序文が遺されている古今集や、撰者の私家集から編纂過程が分かる後撰集と違って、拾遺集成立の経緯は明らかではありません。また、同時期に、拾遺抄という全十巻558首からなる歌集が存在し、この似通った名を持つ二つの歌集の関係についても様々な議論が交わされてきたようです。

 今日では、拾遺抄は、公任個人が撰んだ歌集であり、その成立後、花山院の命により、拾遺抄収録歌を全て取り込んだ上で、全二十巻1349首からなる拾遺集が編まれたというのが定説になっています。新たに加えられた歌は、花山院自らの撰であるという説と、藤原長能、源道済らの撰であるという説がありますが、それにしても、拾遺集の半数近くを占める拾遺抄の歌が、公任の撰によるものであることは間違いないようです。

 

 和歌の世界における公任の主導的地位を示すもう一つの詞華集が、三十六人撰と呼ばれるものです。

 これは、万葉時代の柿本人麿から、平安中期の中務に至る36人の歌人について、10首6人、3首30人の合計150首を選び、歌合風に組み合わせたものです。

 紀貫之が、古今集仮名序で取り上げた6人の歌人、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主を六歌仙といいます。しかし、仮名序の内容からすれば、貫之自身が、この6名を優れた歌人と評価していたわけではなさそうです。

 一方、この三十六人撰は、公任自身が、高く評価する歌人を選んだものであることが明らかであり、ここに数え上げられた歌人たちは、三十六歌仙として長く称揚されることになりました。後に、これに準じて、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙というリストも編まれることになります。

 

 このような和歌の世界での仕事以上に、公任の名を高からしめているのが、和漢朗詠集です。

 これは、さまざまな集まりで朗詠するのに適した詩句を、漢詩、漢文、和歌から、テーマ毎に選んだアンソロジーです。これを自家薬籠中のものにしておけば、いかなる宴席で朗詠を求められても困らないし、気の利いた会話で教養の高さを披瀝することができるという、ちょっとアンチョコっぽい便利な本。

 それだけに、平安貴族にとっては必読書であったらしく、遺されている平安期の古写本の数は、古今集や伊勢物語といった有名どころを遙かに凌駕します。つまり、それほど多くの人々から写された、読まれたというわけで、いわば、平安時代におけるベストセラーであったと考えられます。

 

 ここに収録された漢詩文の中には、枕草子第二百四十八段「雪のいと高う降りたるを」でおなじみの「香鑢峰の雪」も含まれています。

 

 遺愛寺鐘欹枕聴 香鑢峰雪撥簾看

  遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴く 香鑢峰の雪は簾を撥げて看る

(白居易 和漢朗詠集554)

 

 もう一つ印象的なのが、第七十八段の「草の庵」。

 

……見れば、青き薄様にいときよげに書きたまへり。心ときめきしつるさまにもあらざりけり。

  蘭省花時錦帳下

と書きて、「末はいかに、末はいかに」とあるを、いかにかはすべからむ。御前おはしまさば御覧ぜさすべきを、これが末をしり顔に、たどたどしき真名にかきたらむも、いと見苦し、と思ひまはすほどもなくせめまどはせば、ただその奥に、炭櫃に消え炭のあるして、

   草の庵を誰か尋ねむ

と書きつけてとらせつれど、また、返事もいはず。

(枕草子七八段 頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて)

 

 蘭省花時錦帳下 廬山雨夜草庵中

  蘭省の花の時の錦帳の下 廬山の雨の夜の草庵の中

(白居易 和漢朗詠集555)

 

 絶交中の頭中将藤原斉信から届いた手紙に、正面から答えるとすれば、「廬山雨夜草庵中」ということになるわけですが、知ったかぶりして下手な漢字を書くのも見苦しいと考えた清少納言は、いわば和歌仕立ての返事を戻します。

 これが、斉信をはじめとした殿上人たちに大受けに受けて、定子サロンの面目を施したというエピソードです。

 

 このほか、第九十七段「御方々、君たち、上人など」で引用される「九品蓮台のあひだには」も、和漢朗詠集に収録されている慶滋胤保の詩句でした。

 

 和泉式部は、その私家集にいくつかの勒字歌群を遺しており、その最大のものは、それぞれの歌の最初の一文字を続けて読むと、「観身岸額離根草…」という漢詩の読み下し文になるというものなのですが、これも、和漢朗詠集に収録されている句です。

 

 観身岸額離根草、論命江頭不繋舟

  身を観ずれば岸の額に根を離れたる草 命を論ずれば江の頭に繋がざる舟

(羅維 和漢朗詠集789)

 

 和漢朗詠集は長和2年(1013年)頃の成立とされていますので、清少納言が枕草子を書くにあたって、あるいは、和泉式部がこのような勒字歌を試みるにあたって、和漢朗詠集を参照したということではないと思われます。しかし、このような内容の重なりから見てとれるのは、和漢朗詠集に収録された詩句が、当時の貴族社会で広く共有されていた教養であり、他の文学作品を賞翫するためにもそれを知っておくことが必要とされていたという事実です。

 当時の教養水準を示す貴重な資料として、和漢朗詠集はいまも読み続けられています。

 

 

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