日本の王朝文学は、世界に類をみない女流作家中心の文化であり、今日、その中心人物として語られているのが、紫式部と清少納言です。
しかし、同時代的にいえば、源氏物語のようなつくり物語はあくまでもサブカルチャーに過ぎません。枕草子もおそらくはそうでしょう。この当時の文学のメインストリームは、漢詩文と、歌。
そして、この時代、漢詩文と歌の双方において、第一人者と目されていたのが、藤原公任でした。
大覚寺に人々あまたまかりたりけるに、古き滝をよみ侍りける
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
(拾遺集449)
小倉百人一首では、大納言公任、拾遺集では左衛門督公任。
枕草子には、雪の舞い散るある日、「公任の宰相殿」から、「少し春ある心地こそすれ」という下の句を示されて、おそるおそる上の句をつけたというエピソードが語られています。
……みないとはづかしき中に、宰相の御いらへを、いかでかことなしびにいひ出でんと心ひとつにくるしきを、御前に御覧ぜさせんとすれど、上のおはしましておほとのごもりたり。主殿司は「とくとく」といふ。げにおそうさへあらんは、いととりどろこなければ、さはれとて、
空さむみ花にまがへてちる雪に
と、わななくわななく書きとらせて、いかに思うらんとわびし。
枕草子一〇二段 二月つごもりころに
歌の第一人者からの出題なので、清少納言も緊張している様子ですね。
紫式部日記にも登場します。寛弘5年11月1日の記事での、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」と紫式部の消息を尋ねている左衛門督が、公任です。
その一月半ほどまえ、9月15日「五日の産養い」に登場する「四条の大納言」も、公任のことだと考えられています。実際に大納言に昇進したのは翌寛弘6年であるはずなのですが、このあたりの日記の表記は、後日に整理されているのでしょうね。
歌などもあり、「女房、杯」などあるをり、いかがはいうべきなど、口々思ひ試みる。
めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千代もめぐらめ
「四条の大納言にさしいでむほど、歌をばさるものにて、声使ひ用意要るべし」などささめきあらそふほどに、ことおほくて、夜いたう更けぬればにや、とりわきてもささでまかで給ふ。
紫式部日記 五日の産養い
産養いに集った公卿たちから歌を求められたら、なんと応えればいいだろう。公任様に応対する場合には、歌の内容だけではなく、詠み上げる声遣いにも注意しなければ。
口々に言い合う女房たちの中で、紫式部も予め歌を準備していました。
そうやって緊張して、声がかかるのを待っていたのだけれど、何事もなく帰ってしまって、ちょっと拍子抜け。
こういった女房たちの反応からも、公任が別格扱いされていたことが分かります。
この当時、漢詩、和歌、管弦の三分野のすべてに堪能なことを「三舟の才」と称しました。
というよりは、この言葉自体、公任の逸話から生まれた言葉であるようにも思われます。
円融院、大井川逍遙の時、御舟におはしまし、都那瀬に到り給ふ。管弦詩歌、各その舟を異にす。公任、三舟に乗る度なり。まず和歌の舟に乗る、と云々。
古事談 円融院、大井川逍遙の事

舟遊びには、管弦、漢詩、和歌、それぞれ別な舟が用意され、各人がその得意とする分野の舟に乗ったのだけれども、公任はその三つともに乗った、ということです。まず和歌の舟にのって、その才能を発揮し、次々に他の舟に乗り換えたということのようです。
これは、寛和2年(986年)のことであり、公任は20才でした。
公任は、冷泉朝で関白、円融朝で摂政を務めた藤原実頼を祖父、円融朝、花山朝で関白を務めた頼忠を父にもち、藤原北家でも家格の高い小野宮家の出身で、同じ康保3年(966年)生まれの藤原道長とは、又従兄弟の関係になります。この当時、花山帝のもとで、頼忠は太政大臣関白、道長の父兼家は右大臣として並び立っていました。
兼家が、公任の才能を、わが息子たちと引き比べて羨んだのは、この頃のことだと思われます。
四条大納言公任の、かく何事もすぐれめでたくおはしますを、大入道殿兼家、「いかでかからむ。羨ましくもあるかな。我が子どもの、影だにふむべくもあらぬこそ口をしけれ」と申されたまひければ、中の関白殿道隆、粟田殿道兼などは、けにさもやと思すらむと、はづかしげなる御気色にて、物ものたまはぬに、この入道殿は、いと若くおはします御身にて、道長「影をばふまで、つらをやふまぬ」とこそ仰せられけれ。
大鏡 太政大臣道長
息子たちのうち、長男道隆、次男道兼は、自らを恥じて父兼家になにも言えなかったけれど、三男坊の道長だけは、「影なんか踏まずに、面を踏んでやるよ」と剛腹な態度を示したというエピソード。
大鏡にも、公任の三舟の才を伝える逸話が残されています。
一年、入道殿の大井川に逍遥せさせ給ひしに、作文の舟・管絃の舟・和歌の舟と分たせ給ひて、その道にたへたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言の参り給へるを、入道殿、「かの大納言、いづれの舟にか乗らるべき」とのたまはすれば、「和歌の舟に乗り侍らむ」とのたまひて、詠み給へるぞかし
小倉山嵐の風の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき
申し受け給へるかひありてあそばしたりな。
御自らものたまふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、『いづれにかと思ふ』とのたまはせしになむ、我ながら心おごりせられし」とのたまふなる。
一事の優るるだにあるに、かくいづれの道も抜け出で給ひけむは、いにしへも侍らぬことなり。
大鏡 太政大臣頼忠
歴史的事実と考えられているのは、円融院の大井川逍遙であり、この入道殿こと道長の大井川逍遙の際の逸話は、円融院時代の逸話の訛伝であるとの見解もあります。
その理由の一つは、おそらく、この紅葉の歌の作歌事情が、公任集や拾遺集の詞書では大鏡が伝えるものと異なるというところにあるようです。
ほうりんにもうでたまふる、あらしの山にて
あさぼらけあらしの山の寒ければ散る紅葉葉をきぬ人ぞなき
(公任集139)
嵐の山のもとをまかりけるに紅葉のいたくちり侍りければ
朝まだき嵐の山のさむければ紅葉のにしききぬ人ぞなき
(拾遺集210)
しかし、これらの歌はまったく同じというわけではありません。もともとストックしていた歌を、この大井川逍遙の機会に、ちょっとアレンジして披露したということだってあり得るのではないでしょうか。例えば、舟に乗ったのが昼過ぎであれば、あさほらけ、とか、朝まだき、といった初句は使えないわけでしょうから。
そう考えれば、この大鏡の伝える逸話を、さほど疑う理由はないのではないでしょうか。
詩歌における公任の名声が、壮年に到ってますます高まったことは明らかであり、管弦の才も、その後衰えたと考える理由はありません。同じような舟遊びが企画される度に、その三舟の才は注目を集めたはずです。