清少納言の晩年に関しては、いくつかの形でその零落が伝えられています。
例えば、清少納言の「いみじき心ばせ」を讃えた「無名草子」は、「……はかばかしきよすがもなかりけるにや」としたうえで、こう続けています。
乳母の子なりける者に具して、遥かなる田舎にまかりて住みけるに、襖などいふもの干しに、外に出づとて、「昔の直衣姿こそ忘られね」と独りごちけるを、見侍りければ、あやしの衣着て、つづりといふもの帽子にして侍りけるこそ、いとあはれなれ。まことに、いかに昔恋しかりけむ。
ボロボロの衣を身に纏い、布をつぎはぎしたものを帽子代わりに被って、古き佳き日々をしみじみと懐かしむ、年老いた清少納言。
これでも、十分な零落ぶりですが、古事談の伝える清少納言の晩年は、もっと凄まじいものがあります。
清少納言零落之後、若殿上人あまた同車、渡彼宅前之間、宅体破壊したるを見て、少納言無下にこそなりにけれと、車中にいふを聞きて、本より桟敷に立ちたりけるが、簾を掻揚げ、如鬼形之女法師顔を指出すと云云。駿馬の骨をば不買やありしと云云。燕王好馬買骨事也。
古事談 零落したる清少納言、秀句の事
廃墟のような清少納言の家の前を通りかかった若い殿上人たちが、その零落ぶりを語っていると、その家の中から、法師姿をした鬼みたいな女性が顔を出し、放った言葉は、「駿馬の骨を買わぬつもりか!」
この言葉は、「戦国策」にある、駿馬を求めるのに、まずは駿馬の骨を買ったという燕王のエピソードに基づくもので、落ちぶれたとはいえ、矜恃を喪わないところに、いかにも清少納言らしさを感じますが、それにしても、「如鬼形之女法師」とは。
頼光朝臣、四天王等を遣わせて清監打たしむるの時、清少納言、同宿にてありけるが、法師に似たるに依ってこれを殺さんと欲する時、尼たるの由伝ひえんとして、忽ちに開を出だすと云々。
古事談 清少納言、開を出す事
清少納言の兄である清監こと清原致信は、寛仁元年(1017年)に、源頼光の弟である源頼親に殺害されています。加害者は、その場に居合わせた法師姿の清少納言も殺そうとしますが、清少納言は、自分が女性であることを示すために性器を露出して、難を逃れたという話。
どれもこれも、清少納言ファンにとっては辛い話です。まるで、「そのあだになりぬる人の果て、いかでかよく侍らむ」という紫式部の予言が成就してしまったかのような、零落ぶり。
こういった零落伝説は、武士が権力を握った鎌倉時代に、前時代の王朝文化を否定する風潮が強まったことが関係しているとの見方があります。しかし、同時代の赤染衛門が詠う清少納言邸も、やはり壊れかけているようであり、単なる伝説と片付けることもできません。
元輔が昔住みける家のかたはらに清少納言住みけるころ、雪いみじうふりて、隔ての垣もたふれ侍りければ、申しつかはしける
跡もなく 雪ふるさとは 荒れにけり いづれ昔の 垣根なるらん(新古今集1580)
大納言公任も、都に戻ってきた清少納言と連絡をとりました。
清少納言が月の輪にかへり住むころ
ありつつも 雲間にすめる 月の輪を いくよ眺めて 行き帰るらむ
返り事も聞えで、ほどへてうれふることありて、御文を聞えて、そのこといかに、と聞えければ
何事も 答へぬことと ならひにし 人と知る知る 問ふや誰ぞも
返し
答なきは 苦しきものと 聞きなして 人の上をば 思ひ知らなむ
とてなむ、とあれば、黄なる菊に挿したまひて
梔子の 色にならひて 人言を きくとも何か 見えむとぞ思ふ
返し
おしなべて きくとしもこそ 見えざらめ こはいとはしき 方に咲けかし
公任が都に戻ってきた清少納言に歌を贈ったのにその返事がなかった。ところが、ずいぶん経ってから、こんどは清少納言の方から手紙が来た。「うれふること」というのは、なにか困りごとや心配ごとの相談なのでしょうから、やはり幸せそうには見えません。
わたしの手紙は無視することにしてたんじゃないの、そのわたしに相談ごと持ちかけているのはどちらさまですか、という公任のツッコミに、「返事がないのは辛いことだって、あなたにわからせてあげようと思ったのさ」という切り返しの手強さは、宮仕え時代と変わらない清少納言らしさです。
晩年の清少納言が帰り住んだという月輪が、今日のどこにあたるのか、諸説あります。例えば左京区一乗寺月輪寺町付近や、右京区嵯峨清滝月ノ輪町など。でも、ここでは、東山区泉涌寺付近の月輪説を採りたいところです。このあたりが月輪と呼ばれるようになったのは平安時代末期以降であるとの説もあるのですが、やはり、定子の眠る鳥辺野陵のごく近くというのが魅力です。1974年、泉涌寺境内に、歴史学者角田文衞の発案で、清少納言の歌碑が建立されました。
枕草子に、こんな章段があります。
御乳母の大輔の命婦、日向へくだるに、給はする扇どもの中に、片つ方は、日いとうららかにさしたる、田舎の館などおほくして、いま片つ方は、京のさるべき所にて、雨いみじう降りたるに、
あかねさす 日に向かひても 思ひ出でよ 都は晴れぬ ながめすらむと
御手にて書かせ給へる、いみじうあはれなり。さる君を見おきたてまつりてこそ、え行くまじけれ。
枕草子二二六段 乳母の大輔の命婦、日向に下るに
ここに、中関白家の没落や定子の苦境を一切描こうとしなかった「いみじき心ばせ」の綻びを読み取られるのは、清少納言にとっては本意ではないかもしれません。
しかし、この章段での「あはれ」は、趣がある、とか、すばらしい、といった意味ではなく、やはり、痛ましいという意味にとるべきものでしょう。
そんな定子さまを見捨てて、離れていくなんて、自分には、できない。
清少納言は、この想いを終生持ち続け、鳥辺野陵にほど近い月輪で、定子の菩提を弔いつつ、静かな晩年を過ごしたのではないでしょうか。