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2026/08/11

和泉式部③〜伝説に彩られた生涯

 和泉式部の生涯は、大スターに相応しく、さまざまな伝説に彩られています。

 

 柳田国男によれば、和泉式部は、肥前国杵島郡和泉村の山で、白鹿の仔として生まれたという伝説があるそうです。子のない老いたる夫婦が、その子を貰い受けて育ててみると玉のような美女になったけれども、足の趾のみが二つに分かれて人間のようでなかったため、それを隠すために常に足袋というものを履いていた。今日、5本の趾を二つに分けてはく足袋が普及しているが、それは和泉式部の趾を隠すために案出されたものである、という話。

 この杵島郡を西の端として、東は陸中和賀郡まで、京都をのぞいて全国に7カ所、和泉式部生誕の地と伝わる場所があるとか。亡くなったと伝えられる場所はさらに多く、15カ所。これは柳田国男が調べた範囲でのことであり、調査を重ねれば、まだまだあるかもしれません。

 

 和泉式部にまつわる伝説を残す寺社仏閣も、全国に点在しています。

 

 鎌倉時代前期に成立した「古今著聞集」は、伏見稲荷田中神社にまつわるエピソードを伝えています。

 和泉式部しのびて稲荷へまいりけるに、田中明神の程にて時雨のしけるに、いかがすべきと思ひけるに、田かりける童の、あをというものをかりてきてまいりにけり。下向のほどにははれにければ、此あををかへしとらせてけり。さて次日、式部はしのかたをみいだしてゐたりけるに、大やかなる童の、文もちてたたずみければ、「あれはなに物ぞ」といへば、「此御ふみまいらせ候はん」といひて、さしおきなるを、ひろげてみれば、

   しぐれするいなりのやまのもみぢ葉は青かりしより思ひそめてき

とかきたりけり。式部あはれと思ひて、このわらはをよびて、「おくへ」といひて、よびいれるとなむ。

 (古今著聞集 和泉式部田刈る童に襖を借る事並びに同童式部に歌を贈る事)

 

 卑賤の男でも、すぐれた歌を詠めば和泉式部から受け入れてもらえるという歌徳説話ですが、この童を稲荷神の化身とすれば神婚譚にも読めます。

 

 鎌倉時代後記の僧無住による仏教説話集「沙石集」には、この田中明神の類話をはじめとして、和泉式部をめぐる説話が複数収録されています。

 ひとつは、道命阿闍梨とのエピソード。

 和泉式部は、好色の美人なりけるが、道命阿闍梨、貴き聞こえ有りて、法輪寺の辺りに、庵室して、如法に行じけるを、夜ひそかに行きて、堕とさむとて、戸を叩きけれども、心得て、音せざりければ、かく云ひかけて帰りける。

   寂寞の苔の岩戸をたたけども無人声にて人も音せず

 かせ山と云う山に、参籠して行ひけるを、行きて、両三日うかがひ寄りて、云ひやりける。

   都でて今日みかの原いづみ河河風寒し衣かせ山

 この歌にめでて、堕ちにけり。

(沙石集巻第五末 人の感ある和歌の事)

 

 道命阿闍梨は、藤原道綱の子、つまり蜻蛉日記の作者の孫にあたります。法華経読誦に優れ、貴顕の信仰を集める一方、後白河法皇が編んだ「梁塵秘抄」には、「和歌にすぐれてめでたきは、人丸赤人小野小町、躬恒貫之壬生忠岑、遍昭道命和泉式部」という今様が収録されており、歌人としても評価されていたようです。古事談をはじめてとして、和泉式部との艶聞がさまざまな形で伝えられていますが、この「沙石集」の説話は、和泉式部を、道心堅固な僧を誘惑する妖婦として描いているところが特徴的。

 この話に続いて、道命が式部に通ってきたところに、俄に保昌が帰宅してきた話など、いくつかのエピソードが続きます。

 

 沙石集は、道命との話とはまた別に、貴船神社を舞台とした歌徳説話も伝えます。

 和泉式部、保昌にすさめられて、巫を語らひて貴布禰にて、敬愛の祭りをせさせけるを、保昌聞きて、かの社の木蔭に隠れて見ければ、年たけたる巫女、赤き弊ども立て廻らして、様々に作法して後、鼓を打ち、前を掻き上げて叩きて、三度廻りて、「これ体にせさせ給へ」と云ふに、面うち赤めて返事もせず。「いかにこれ程の御大事思し食し立ちて、今こればかりになりて、かくはせさせ給はぬぞ。さらばまた、などか思し食し立ちける」と云ふ。保昌、「くせ事見てんず」と、をかしく思ふ程に、良久しく思ひ入りたる気色にて、

  ちはやふる神の見る目も恥づかしや身を思ふとて身をや捨つべき

かく云ひける事の体、優に覚えければ、「これに候ふ」とて、倶して帰り、志、浅からず。

 これぞ、格を越えて格に当たれる姿なれ、若し格を堅く執して、前掻き上げて、叩き廻りたらしかば、やがて疎まれて本意も遂げじ。

(沙石集巻第十末 諸宗の旨を自得したる事)

 

 「格を越えて格に当たれる姿」というのは、禅宗に謂う「越格」、すなわち、悟りを得た高僧などの型破りな言動が、一般的な規範を乗り越えて却って範に叶うといった状況を指しているのだと思われますが、さて、それに当てはまるエピソードなのかどうか。

 でも、和泉式部にそんなみっともない姿をしてほしくないという気持ちや、恥じらう式部を可憐に思う気持ちは、保昌だけではなく、筆者の無住にも、読者のわたしたちにも共通するところだと思います。

 

 世阿弥は、浄土宗西山深草派総本山誓願時の縁起から、和泉式部が菩薩として顕現する、謡曲「誓願時」を書きました。

ワキ 「そのご本尊のお告げとは。御身はいづくに住む人ぞ」

シテ 「わらわが住処はあの石塔にて候」

ワキ 「不思議やなあの石塔は。和泉式部の御墓とこそ聞きつるに。御住処とは不審なり」

シテ 「さのみな不審し給ひそよ。我も昔はこの寺に。値偶の有れば澄む水の。春にも秋や通ふらし」

地  「結ぶ泉の自らが。名を流さんも恥ずかしや。よしそれとても上人よ。わが偽りはなき跡に。和泉式部は我ぞとて。石塔の石の火の。光とともに失せにけり」

 

 このような伝説の豊富さは、約200年前の平安前期に活躍した小野小町に通じるところがありますし、この二人の女性の伝説には重なっている部分もあるようです。例えば、和泉式部伝説の最南端とされる日向法華寺の伝承は、悪疾にかかって薬師如来に祈願しても効験がないため、「南無薬師諸病悉除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」という歌を詠んだところ、薬師から「村雨はただひと時のものぞかしおのが蓑笠そこにぬぎおけ」という返歌があり、宿痾たちまち平癒したというものですが、伊予や備中では、同じ話が小野小町に託して伝えられているらしい。

 しかし、小野小町は、衣通姫に準えられるほどの美貌でありながら、深草少将百夜通いのように男性を拒絶する女性でした。その末路は、卒塔婆小町の髑髏に象徴される無常観に彩られています。

 それに対して、和泉式部伝説のほとんどは、積極的な男性関係を伝えています。そして卒塔婆小町の悲惨さとは対照的に、紆余曲折はあるにせよ、最終的には救われる幸せな女性として、場合によっては、衆生を救う菩薩の姿で描かれていることも対照的です。

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