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2026/08/04

和泉式部⑧〜娘小式部内侍

 和泉式部には、最初の夫である橘道貞との間に、小式部内侍という名前で知られる娘がいます。生年は、長徳2年(995年)〜長保元年(999年)のあたりで、寛弘6年(1009年)に、母和泉式部とともに、中宮彰子に出仕したと言われています。内侍という呼称は、本来は内侍司の女官としての役職名ですが、この当時は、後宮の女房名として使われることも珍しくないようです。外戚である摂関家の権限が大きくなったことに伴い、中宮職にも、本来であれば内侍が行うべき職務を担う女房が必要になっていたのかもしれません。

 

 小式部内侍は、百人一首にも選ばれている天の橋立の歌で有名です。

 和泉式部、保昌に具して丹後の国に侍りけるころ、都に歌合ありけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、定頼卿局の方にまうできて、「歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしてけんや、使まうで来ずや、いかに心もとなくおぼすらん」など、たはぶれて立ちけるを、引きとどめてよめる。

  大江山いくのの道のとをければふみもまだみず天の橋立 (金葉集550)

 

 

 藤原道長の息子教通に愛され、寛仁2年(1018年)、教通の子を産みました。

 入道殿の、小式部内侍子生みたるに、のたまはせたる

   嫁の子の子ねずみいかがなりぬらんあな愛しとおもほゆるかな (和泉式部正集623)

  御返

   君にかく嫁の子とだに知らるればこの子ねずみの罪かろきかな (正集624)

 道長が、内侍が産んだ子を、「嫁の子」として認めてくれたことを、「この子の前世の罪が軽かったお蔭でしょう」と喜ぶ和泉式部。当時、40歳くらいの、若いお祖母ちゃんです。

 

 小式部内侍の、教通に詠みかけた歌もよく知られています。

 これも今は昔、大二条殿、小式部内侍おぼしけるが、絶え間がちになりけるころ、例ならぬことおはしまして、久しうなりて、よろしくなり給ひて、上東門院へ参らせ給ひたるに、小式部、台盤所にゐたりけるに、出でさせ給ふとて、「死なんとせしは、など問はざりしぞ」と仰せられて過ぎ給ひける。御直衣の裾を引きとどめつつ、申しけり。
   死ぬばかり嘆きにこそは嘆きしか生きて問ふべき身にしあらねば
堪へずおぼしけるにや、かき抱きて局へおはしまして、寝させ給ひにけり。

(今昔物語 大二条殿に小式部内侍歌読みかけ奉る事)

 関係が間遠になっていた頃、というのですから、「こねずみ」を産んだ後でしょうか。頼通が健康を害した際に、小式部内侍が見舞いにも来なかった。それを咎める頼通に対して詠んだ歌。正室に遠慮せざるを得ない切なさに溢れていて、ぼくは、天の橋立の歌よりも、こちらの方がずっと好きです。

 小式部内侍の歌としては勅撰集に8首採られていますが、うち6首は同名異人のものであり、彼女自身の歌は、2首しかないらしい。天の橋立の歌も、実は娘思いの和泉式部が、定頼に頼んで一芝居打ってもらったものだという説もあり、内侍自身が歌の才に恵まれていたのかどうかについては疑問が呈されています。しかし、この「死ぬばかり〜」の一首だけとっても、やはり和泉式部の娘だけのことはあったというべきではないでしょうか。

 因みに、教通の正室は、公任の娘であり、その兄が、定頼です。小式部内侍はその定頼との恋愛関係も知られており、このあたり、関係はなかなか複雑です。

 

 内侍は、母の和泉式部と同じく、たくさんの男性から愛された女性でした。

 語らふ人多かりなどいはれける女の、子生みたりける、「たれか親」といひたりければ、程経て、「いかが定めたる」と人のいひければ

   此の世にはいかがさだめんおのづから昔を問はん人に問へかし (正集806)

 たくさんの男性と関係をもっていた女性だから、生まれた子どもの父親が誰か分からない。「どのように決めましたか」と聞かれたって、知りませんよ。閻魔さまにでも尋ねてください。

 この歌の、「語らふ人多かりなどいはれける女」は、和泉式部自身であると一般には考えられています。しかし、式部自身の生涯を辿ってみると、橘道貞との間に小式部内侍、敦道親王との間に石倉宮永覚を儲けた以外には、出産の形跡がありません。どこかで3人目の子どもを産んでいるはずだという見方もありますが、実はこれは、小式部内侍が産んだ子どものことを指しているのではないか、という説があります。

 そういった背景を仮定すると、道長の「嫁の子の〜」という歌に対して、「このこねずみの罪かろきかな」と詠った式部の心情が痛いほどに分かります。

 

 小式部内侍は、万寿二年(1025年)、藤原公成の子を出産する際に、亡くなりました。

 

 小式部内侍こそ、誰よりいとめでたけれ。かかるためしを聞くにつけても、命短りけるさへ、いみじくこそ思ゆれ。さばかりの君に、とりわき思し時めかされ奉りて、亡きあとまでも御衣など賜はせけむほど、「宮仕えの本意、これはいかが過ぎむ」と思ふに、果報さへ、いと思ふやうに侍りし。

無名草子

 

 俊成女は、小式部内侍を絶賛し、その夭逝さえも素晴らしいことのように褒めちぎっています。しかし、娘に先立たれた和泉式部の嘆きは、いかばかりであったことか。

 それを悼む式部の歌は、帥宮哀傷歌群と並ぶ絶唱といえます。

 

 内侍のうせたる頃、雪の降りて消えぬれば

   などで君むなしき空に消えにけん淡雪だにもふればふる世に (正集482)

 淡雪だって、降れば少しの間なりとこの世にとどまっているのに、なぜにあなたはそんなに急いで空に消えてしまったの。

 

 宮より、「露置きたる唐衣まゐらせよ、経の表紙にせむ」と召したるに、結びつけたる。

   置くと見し露もありけりはかなくて消えにし人を何にたとへむ (正集484)

   留めおきて誰をあはれと思ひけん子はまさるらん子はまさりけり (正集485)

 内侍亡くなりて、つぎの年七月に例得る文に、名の書かれたるを

   もろともに苔の下には朽ちずして埋まれぬ名を見るぞ悲しき (正集545)

 和泉式部は、並外れて愛情深い人だったのではないかと思います。それは、男性に対してのみならず、家族に対しても、そうです。父親に対する歌にも、娘を悼む歌にも、溢れんばかりの愛が満ちています。

 それだけに、晩年の孤独も深かったかもしれません。

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