源氏物語を頂点とするつくり物語は、社会の中心が公家から武家に移るとともに衰微していきましたが、鎌倉末期頃からは、それに代わって、名もない庶民を主人公とした短篇の絵物語が登場します。
このような絵物語は、室町時代を中心に栄え、江戸初期から「お伽」という名の入った多くの草子が刊行されました。享保年間に、大阪の渋川清右衛門がこのような絵物語23篇を集めて、「御伽草子」を刊行、以降、同種の物語が御伽草子と総称されるようになったとされています。
渋川版御伽草子には、「浦島太郎」、「ものぐさ太郎」、「一寸法師」といった、現在も昔話として知られている物語と並んで、「和泉式部」という物語が含まれています。
中ごろ、花の都にて、一条の院の御時、和泉式部と申して、やさしき遊女あり、内裏に橘保昌とて、男あり。保昌は十九、和泉式部は十三と申すより、不思議の契りをこめ、情け深くして、十四と申す春の頃、若一人まうけ給ひ、あひの枕の睦言に、恥ずかしやと思ひけん、五条の橋に捨てにけり。
この捨て子が、後の道命阿闍梨。17才のときに都に出て、御簾の隙間から美しい上臈の姿を垣間見てしまい、柑子商人に身を窶し、内裏に入ります。
柑子を二十個買いたいという侍女に対し、言葉で数えず、恋の歌で数える柑子売り。
一つとや、ひとりまろ寝の袖枕、袂しぼらぬ暁はなし
二つとや、二重屏風の内にして、恋しき人をいつか見てまし……
二十かや、憎しと人を思ふまじ、われならぬ身も人を恋ふれば
かのひてう、これを聞きて、「あながち柑子をよくぼるべきにはあらねども、あまりの歌のおもしろさに、柑子一つ添え給へ」と言へば、柑子一つ添えさまに、
二十一、一夜の情けこめんとて、多く言の葉語り尽くしつ
これを侍女から伝え聞いた上臈は、その歌に心奪われ、侍女一人連れて、黄昏時に内裏を出ます。
……かの道命が宿に行き、戸をほとほとと叩きて
出でて干せ今宵ばかりの月影にふりふりぬれば恋の袂を
と詠みければ、道命、内にてこれを聞き、さながら夢のここちして、急ぎ表の戸を開き、さらば外へも出ずして、かこち顔なる風情にて詠める
出でずとも情のあらば影さして心を照らせ山の端の月
……かの女房情け深きにより、内にさし入りて、その夜は、鴛鴦の衾の下に、比翼の契りをこめ、夜もやうやうふけ、きぬぎぬなりし折しも……
こうして恋の一夜を過ごした二人でしたが、その後朝のやりとりでお互いの素性が判明、美しき上臈は、なんと母親の和泉式部でした。
こは何ごとぞ、親子を知らで逢うことも、かかるうき世に住む故なり。これを菩提の種として、都をいまだ夜深に出でて、尾の上の鐘の浦伝ひ、響きはなんと飾磨潟、霞を凌ぎ、雲を分け、播磨国書写へ上り、性空上人の御弟子となり、六十一の年、得心し給ひける時、書写の鎮守の柱に、御歌を書き付け給ひ、かくばかり
暗きより暗き闇路に生まれきてさやかに照らせ山の端の月
と詠みて、書き付け給ひけるによりて、歌の柱といふことは、播磨国書写よりこそは始まりたると申すなり。
同じく渋川版御伽草子の一つ、「猿源氏草子」にも、和泉式部の挿話が含まれています。
ここでも式部の恋の相手は道命。夫保昌は、式部と道命との関係を知り、道命をおびき寄せて害することを企てます。
ここに和泉式部と申す女に、保昌という人通ひ侍りて、浅からず契りしに、又道命法師といふ者、通ひて契りをこめしに、保昌、このことをききて和泉式部にいはく、「わがいふ如く文を書き給へ」といへば、和泉式部は、「いかなる文をかけとはのはまふぞや」とありしかば、「保昌も此程は見え候はず、御身は急ぎこし給へ、道命法師へまゐる、和泉式部と書き給へ」とありければ、和泉式部は顔うちあかめて、「これは思ひもよらむことをのまたふものかな」とありければ、力およばずして、文をかかれけるが、いつのひまにかしたりけん、箸を五つに折りて、文にそへてやりけり。道命法師、この文を見て、不思議やな、只今来たれと書かれけるが、はしを五つに降りて添へし事ことの不思議さよ、ある歌に
やるはしをまことばししてきばししてうたればししてくやみばしすれ
といふことあり。一定この心なるべし、さては保昌ゐたまひて、かくなんと悟りて行かず、傷害をのがれけるも、道命、和歌の道心得たりし故なり。
分かりにくい歌ですが、どうやら、書いてあることを鵜呑みにしてうかうかとやってきたりすると、討たれてしまって後悔しますよ、という意味なんでしょうね。
和泉式部にしても、道命にしても、歌の道を心得ていたが故に、その恋は成就し、また、命も救われた。また、最終的には極楽往生できた。「和泉式部」の最後の歌は、拾遺集に雅致女式部名義で収録されている歌の訛伝ですが、式部がこの歌によって極楽往生したという歌徳説話は、鎌倉時代の「無名草子」にも見えます。
書写の聖のもとへ
くらきよりくらき途にぞいりぬべきはるかに照らせ山の端の月
と詠みて遣りたれば、返しをばせで、袈裟をなんつかはしたりける。さてそれを着てこそ失せ侍りけれ。そのけにや、和泉式部罪深かりぬべき人、後の世助かりたるなど聞き侍ることなにごともよりも羨ましくはべる。
ともかくも、こういった御伽草子の存在は、そして、そこでの和泉式部の描かれ方は、鎌倉時代から江戸時代にかけて、和泉式部がいかに庶民に愛されていたかを物語っているようです。