和泉式部シリーズに一区切りをつけるあたって、勅撰集の中から、できるだけ、これまで挙げてきたものとは重ならないように、注目歌を挙げてみたいと思います。
性空上人のもとに詠みて遣はしける
暗より暗道にぞ入りぬべき遙に照らせ山の端の月
(拾遺集哀傷1342)
拾遺集に、大江雅致女式部名義で採られている、いわば和泉式部のデビュー作。無名草子、沙石集、御伽草子などにも引用されている関係で、このブログでも既に繰り返し挙げていますが、やはりこれは外せません。
俊頼髄脳には、この歌は、法華経化城喩品の「従レ冥入二於冥一永レ不聞二仏名一」という文句を借りただけのものであり、「津の国の…」(後拾遺集恋二691)の方を名作とする公任の見解が伝えられています。しかし、公任撰と伝えられている後十五番歌合で選ばれているのはやはり「暗より…」の方です。自分自身の評価より、世評の高さを優先したのでしょうか。
百人一首に選ばれている、「あらざ覧…」(後拾遺集恋三763)も名歌の誉れ高い歌ですが、ここではもう少し別な歌に注目してみましょう。
人の身も恋にはかへつ夏虫のあらはに燃ゆと見えぬ許ぞ
(後拾遺集恋四820)
和泉式部集では、百首歌の夏の部の一つであるこの歌を、後拾遺集は、「題知らず」として恋の部に採りました。
激しい恋に身を投じる無謀さを、自ら灯火に飛び込んで身を滅ぼす夏虫に例える歌は、古くは万葉集の髙橋虫麻呂の例があり(万葉集1807)、古今集時代にも、伊勢、凡河内躬恒などの歌があります。しかし、それが、あらわには見えない、忍ぶ恋の形になっているところに、いかにも、情熱的かつ理知的な和泉式部らしさを感じます。同工異曲ともいえる多くの夏虫の歌の中で、ぼくはこれが圧倒的に好きです。
式部自身が、夏の歌として詠ったものが、勅撰集では恋の歌と位置付けられるあたり、恋に生きた式部の人生を象徴しているようでもあります。
六月祓いをよめる
思ふことみなつきねとて麻の葉を切りに切りてもはらへつるかな
(後拾遺集雑六1204)
これも正集百首歌では夏の歌。後拾遺集は、和泉式部集にはなかった詞書をつけて、俳諧歌と位置付けています。
久保木寿子さんの「和泉式部の方法試論」での解説を読んではじめてわかったのですが、これは、「六月(みなづき)」と、「みなつきねとて」が洒落になっているという解釈なんですね。詞書がなくても、麻の葉を切って祓うという内容から、六月祓いを詠んだものと理解するのが常識なのでしょう。
ぼくは、そんなことにはまったく気付かず、ただ、悩み事を忘れようとして一心に麻の葉を切る式部の姿を頭に浮かべていました。
大岡信さんが、評論「公子と浮かれ女(岩波文庫「宴と孤心」収録)」で、「彼女の歌には、いかなる場合でも、突きつめていけば極度の熱中または極度の放心に必ず達してしまうひと筋の調べがあって」として挙げる最初の歌が、これです。
極度の熱中、または放心。
例えば、あの「つくづくと惚れてのみおぼゆれば」との詞書を持つ「はかなしと…」(続集61)などは、極度の放心の例かもしれません。
ともかくもいはばなべてになりぬべし音に泣きてこそ見すべかりけり
(千載集恋歌五906)
千載集では無題ですが、和泉式部集では、「歎く事ありと聞きて、人の如何なることぞと問ひたるに」との詞書が付されています。
この歌についても、大岡さんが公任の口に置いた評を借りましょう。
万葉の古い時代はいざ知らず、延喜の御代の和歌再興以来今日まで、こんな歌を詠んだ女はただ一人もいなかった。和泉という女を裁ち割ってみれば、結局のところ、理非をこえてなまめかしくかぐわしいこの種の歌だけが、その五臓六腑から立ちのぼり、男を酔わせるだけだと思われる。世の中のことを男と女のことと強いてでも割切ってみせるこのしたたかさが、背後にどれほどおびただしいつれづれのわびしさ、せつなさを押し殺しているものか、さすがの博識な公任にもちょっと見当がつきかねた。
この歌には、確かに、万葉集の笠郎女や、狭野弟上郎女の激しさを思わせるものがあります。古今集的な手弱女振りで抑え込まれてきた熱いものを、読み手の喉元に突きつける、そんな迫力を感じます。
でも、見逃してはならないのは、ここで詠われているのは、「見すべかりけり」(和泉式部集では「見せまほしけれ」)、つまり、「泣いてみせるべきだった(泣いてみせたかった)」という慚愧の念であり、その激しさは、まず自分自身に向かっているものだということです。
夏虫の歌と同じく、万葉集的な激しさを内省的な切なさに転化するのが、和泉式部の歌の姿であるように思えます。
頼めたるをとこ今や今やと待ちけるに前なる竹の葉に霰の降りかかりけるを聞きてよめる
竹の葉にあられふるなりさらさらにひとりは寝べき心ちこそせね
(詞花集恋下254)
これは、和泉式部続集では、「十二月、人のもとより、よみにおこせたりし」という詞書を持つ七首連作のうちの一つで、雹(あられ)と題されています。
詞花集の「頼めたるをとこ…」という詞書は、編者が、この歌の内容から想像して勝手につけたものでしょう。
確かに、内容的にはそういう歌なのですが、これも誰かを待つ恋の歌というよりも、夜更けに一人、さらさらという霰の降る音に耳を澄ませている式部の孤独が浮かび上がる歌だと思います。
男に忘られて侍ける頃、貴船にまゐりて、御手洗川に蛍の飛び侍りけるを見てよめる
もの思へば沢のほたるもわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る
(後拾遺集雑六1162)
川のほとりで一人、飛び交う蛍を凝視している女。女の心は、蛍の光に吸い寄せられていますが、この歌を聴く人の心は、その女の孤独に吸い寄せられます。「男に忘られて侍ける頃〜」という詞書によるまでもなく、三十一文字だけで、この女性の孤独が心に深く刻まれます。
和泉式部の、最高傑作の一つであり、おそらく、和歌史上においてもそうではないでしょうか。
式部の作歌歴の始まりに、「暗より…」の歌を置き、その終わりに「もの思へば…」の歌を置くとき、愛と孤独を詠い続けた彼女の人生が、まるで極めて完成度の高い一幅の絵のように感じられます。
ところが、不思議なことに、この歌は、和泉式部正集にも、続集にも、含まれていません。
もっとも、「和泉式部集」と呼ばれるものの中には、いわゆる宸翰本和泉式部集、松井本和泉式部集というものもあり、そちらには含まれているのだそうです。その二つの系統の和泉式部集は勅撰集に入った歌を中心として編纂されたものらしく、そうであれば、この歌を洩らすわけはないでしょうね。それは別として、今日、単に和泉式部集(正集)、和泉式部続集と呼ばれている歌集には、この歌は含まれていない。
和泉式部続集が編まれたのは、後拾遺集以前のことであり、正集が編まれたのは千載集あるいは新古今集当時のことではないかと考えられています。
だから、正集の編者は、後拾遺集にも選ばれ、時代不同歌合にも選ばれているこの歌を、組み込もうと思えば、容易に組み込めたはずです。
でも、そうはしなかった。
なぜ、これほど評価の高い歌を洩らしてしまったのでしょうか。
実は、「もの思へば…」の歌が印象的なあまりに、つい忘れてしまいがちですが、この歌には返歌があり、それと併せて雑歌の神祇の部に採られているものです。
御返し
奥山にたぎりて落つる瀧つ瀬のたまちるばかりものな思ひそ (同1163)
この歌は貴船の明神の御返しなり、男の声にて和泉式部が耳に聞えけるとなんいひ伝えたる。
もちろん、この返歌もまた和泉式部が詠んだものと考えるのが常識的な捉え方ですが、少なくとも、この左注によれば、貴船明神の詠歌であるということになります。
貴船神社は、沙石集が伝える、「神の見る目も恥づかしや」という説話の舞台でもありました。
そんなことを踏まえれば、「もの思へば…」の歌自体、既に、伝説の域に入り込んでいるかのようにも見えます。
実在した人物の生涯が、まるで一幅の絵のように見えるとするならば、もちろんそれは、現実のさまざまな部分を捨象し、特定の部分を強調することによって得られた一つのイリュージョンにほかなりません。そして、この御手洗川の蛍は、そのイリュージョンを完成させるにあたって、まるで誂えたピースであるかのようにピッタリと嵌まってしまう。
和泉式部正集が編まれた時代には、実在した歌人和泉式部と、伝説の中の和泉式部が既に判別しがたい状況になっていたのではないか。そういった中で、編者は、半ば貴船神社伝説の一部になってしまっているこの歌を、正集に組み込むことに躊躇を感じたのではないか。
そんなことを熟々と考えています。