2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部と藤原道長は若い頃から恋愛関係にあり、後の大弐三位藤原賢子は二人の間の子どもであるという設定になっていました。
南北朝時代に成立した「尊卑分脈」という系図集には、「藤原為時女 歌人 上東門院女房 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾云々」とあるようです。
つまり、この大河ドラマの設定には、一定の根拠があります。ただし、そのような関係があったとしても、それは、式部が上東門院彰子の女房として出仕して以降のことであると考えるのが普通であり、賢子が二人の間の子どもだと考えている史家はいないはずです。
紫式部日記に、道長が登場する最初の場面。
渡殿の戸口の局に見出だせば、ほのうりきりたる朝の露もまだ落ちぬに、殿ありかせ給ひて、御随身召して遣水払はせ給ふ。橋の南なる女郎花のいみじう盛りなるを、一枝折らせ給ひて、几帳の上よりさし覗かせ給へる御さまの、いと恥ずかしげなるに、我が朝顔の思ひ知らるれば、
「これ、遅くてはわろからむ」
とのたまはするにことつけて、硯のもとに寄りぬ。
女郎花盛りの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ
「あな、疾」
と微笑みて、硯召し出づ。
白露は分きてもおかじ女郎花心からにや色の染むらむ

いまが盛りの女郎花の色を見ると、美しいという天分に恵まれなかった自分を恥ずかしく感じます。
天の恵みに分け隔てはない。女郎花は、美しくあろうという気持ちで美しく染まっているのだよ。
道長の歌といえば、例の「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という、いかにも傲慢な歌が有名ですが、実は勅撰集にも43首入選しており、政治家としてだけではなく、歌人としても一定の評価を得た人のようです。
この贈答歌は、そういった主人道長と、その娘彰子に才芸女房として仕えている女房との間の、自然なやりとりにも見えます。
源氏の物語、御前にあるを、殿の御覧じて、例のすずろごとども出きたるついでに梅の下に敷かれたる紙に書かせ給へる、
すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ
給はせたれば、
人にまだ 折られぬものを 誰かこの すきものとぞとは 口ならしけむ
めざましう
と聞こゆ。
梅の酸っぱさと色好みを掛詞にして、あなたに心惹かれない男はいないでしょうよという道長の詠みかけに対し、誰に靡いたこともない私をいったい誰が色好みなんて言ってるんでしょうという返し。
道長の誘いを軽くいなした態ではありますが、女郎花の贈答歌と比べると、ちょっと艶めいています。
この贈答歌は、紫式部集には含まれておらず、日記の方だけです。
日記は次のように続きます。
渡殿に寝たる夜、戸を叩く人ありと聞けど、おそろしさに音もせで明かしたるつとめて、
夜もすがら くひなより異に なくなくぞ 真木の戸口に たたきわびつる
かへし
たたならじ とばかりたたく くひなゆへ あけてはいかに くやしからまし
一晩中、私は泣きながらあなたの部屋の戸を叩き続けていました。あの、戸を叩くような声で鳴く水鶏より、もっと激しく泣いていたのですよ。
ただごとではないとも思えない叩きかたでしたが、戸を叩くだけで、真面目な気持ちなんかないんだから、戸を開けていたら、あたしはどんなに悔しい思いをしたでしょう。
この戸を叩いていたのが、誰なのか、日記にも歌集にも、書かれていません。つまり、「夜もすがら」の歌は、「詠み人知らず」ということになります。
しかし、この贈答歌は、新勅撰和歌集では、道長の詠歌として収録されています。
夜ふけてつま戸をたたき侍りけるに、あけ侍らざりければ、あしたにつかはしける。
法成寺入道前摂政太政大臣
夜もすがら くひなより異に なくなくぞ 真木の戸口に たたきわびつる
撰者である藤原定家は、詠み手が道長であるという根拠資料を目にしていたのでしょうか。
詞書は、道長自身によるものが何らかの形で遺されていたのか、それとも、撰者である藤原定家が勝手につけたものなのか。
この当時、紫式部の仕える中宮彰子は、里内裏としての土御門邸で生活していたと思われます。そこで女房に夜這いをかけるとすれば、邸の主である道長と考えるのが自然なんでしょうね。
また、この記事が、「すきもの」云々に続く記事であることからしても、そのように理解するのが普通なのかもしれません。
この当時、主人と男女関係のある女房を、「召人」と言いました。源氏物語にも、複数の召人が登場します。
和泉式部と帥宮との関係は、もともとは帥宮が和泉式部の許に通うという形でしたが、最終的には、和泉式部が帥宮の召人として邸に入ることになりました。
「尊卑分脈」の編者は、紫式部は道長の召人だった、と考えていたようです。
「或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾云々」の、雅正というのは為時の父ですので、その娘であるとすれば為時の妹にあたるというのは筋が通っています。そのような別の系図を伝える「或本」が存在し、そこには「御堂関白道長妾云々」という記述もあった、ということだと思われます。
ところで、この水鶏の贈答歌も、紫式部集には収録されていません。
紫式部集には、別の水鶏の歌が収録されています。
うちに、くひなのなくを、七八日の夕づくよに、小少将の君
あまのとを月のかよひぢささねねどもいかなるかたにたたくくひなぞ (紫式部集67)
返し
まきのともささでやすらふ月かげになにをあかずとたたくくひなぞ (同68)
そして、その次に並べられているのが、冒頭で紹介した女郎花の贈答歌です。
あさぎりのおかしき程におまへの花ども色々にみだれたる中に、をみなへしいとさかりにみゆ。おりしも殿いでて御覧ず。一枝おこせたまひて、几帳のかみより、これただにかへすなとて、たまはせたり
をみなへしさかりの色をみるからに露のわきけるみこそしらるれ (同69)
日記では、随身も側に控えている場でのやりとりですが、こちらでは、二人だけの場面として描かれています。
夜中に、あなたの妻戸を叩いていたのはどなた? という小少将の君からの問いかけに、さて、どこのどなたが、なにを求めて叩いていたのでしょうね、と空とぼけたような式部の返し。
続いて描かれる、朝まだき、女郎花を前にした道長と式部の姿。
日記では、才芸女房と主人との自然なやりとりに見えていたものが、この歌の並びによって、俄に異なる色彩を帯びてくるようです。
これもまた、紫式部の技であるのかもしれません。