Aさんは37歳の女性、市役所で働きながら、女手一つで2人の小学生を育てていたお母さんでした。
Bクリニックにおいて、大腿部脂肪吸引術及びバスト自家脂肪注入術を受けたところ、術中に痙攣が出現、抗てんかん薬が投与されています。意識レベルや体温の推移は記録されていませんが、手術終了後の体温は、なんと41度。これに対してボルタレン座薬の挿肛、アイスノンでのクーリングが行われました。記録にある酸素飽和度は一貫して90%以上ですが、施術終了後約4時間後には気管内挿管がなされているところをみると、呼吸不全の状態になったものと思われます。
翌朝になって近くの総合病院に搬入され、意識を取り戻すことなく約1ヶ月後に亡くなりました。直接的な死因は低酸素脳症とされています。
いったい何が起こったのか。
脂肪吸引術の基本的な手技は、局所麻酔薬を皮下に注入し、皮膚の切開部分からカニューレを挿入して脂肪を吸引するというもののようです。記録によれば、この手術には、4860㎎の局所麻酔薬リドカインが使用されていました。
リドカインの添付文書には、硬膜外麻酔、伝達麻酔、浸潤麻酔での使用量が記載されており、いずれの使用方法でも、基準最高用量は1回200㎎とされています。4860㎎というのは、途方もない過量投与です。
脂肪吸引術における皮下注入の場合の基準は示されていませんが、聞くところによれば、リドカインが全身に作用する前に脂肪とともに吸引されるので、通常の使用法よりも大量に使ってもいいのだという理窟でこういったことが行われているのだそうです。
ほんとうにそんなことがあるのだろうかと調べてみたところ、1999年、イングランドジャーナルに「脂肪吸引術に関連した死亡」という論文が掲載されていました。アブストラクトの翻訳しか読んでいませんが、それには、「リドカインの推奨用量は体重当り55mg / kgという高用量であるが、安全性のデータはほとんど入手されていない」とありました。いったいどのような人たちがこんな用量を推奨しているのかよく分かりませんが、この基準に従っても体重50㎏の場合に2750㎎です。
本件の使用量はそれをも遙かにうわまわります。
では、過量投与の場合、どのようなことが起こるのでしょう。
リドカインのインタビューフォームには、血中濃度5ないし10μg/mℓ以上で中毒症状を発現すると記載されています。それによる中枢神経系の症状が進行すると、意識消失、全身痙攣があらわれ、その症状に伴って低酸素血症、高炭酸ガス血症が生じるおそれがあり、より重篤な場合には呼吸停止を来すこともあることも記載されています。
本件術中のリドカイン濃度は、中毒域を遙かに超える濃度であったと思われます。
また、重大な副作用の項には、「悪性高熱」もあります。Aさんの容態は、劇症型悪性高熱症の診断基準を充たしていました。
本件ではリドカインの過量投与がいちばんの問題ですが、積極的な治療が可能な総合病院に搬入したのが翌日だったというのも大問題です。悪性高熱が発症した場合に投与すべきはダントロレンナトリウムであり、ボルタレンではありませんし、アイスノンによるクーリングで間に合うはずもありません。
いったい、どういうつもりだったのでしょうか。
クリニックの設置者と実際の施術者と2人の医師に対して損害賠償請求を行ったところ、クリニックも医師個人も、医師賠償責任保険に入っていませんでした。しかも実際の施術者は、本件で業務上過失致死の刑事責任を問われて医師としての仕事を辞めていました。しかし、遺された子どもたちの将来と、彼らを育てていかねばならない祖父母夫妻の生活を考えれば、賠償額を譲歩することはできません。
結局、全体の賠償額の半分を示談成立時に、残りの半分を4年間48回にわたって分割で支払うという形で、訴訟提起前の示談が成立しました。
前掲イングランドジャーナルの論文は、脂肪吸引後に死亡した5例を検討したものであり、「過剰脂肪吸引術は死に至ることがあるが、それは、一つには、おそらくリドカインの毒性やリドカインに関連した薬物相互作用のためであろう」と結論しています。
しかし、脂肪吸引術の危険性はそれだけではありません。
施術後の脂肪塞栓も非常に危険な合併症で、民事訴訟となった例があります。前掲の論文で検討された5例のうちの一つは、肺血栓塞栓症でした。皮下脂肪に挿入した吸引管の先端の位置を十分確認しないままに操作して、腹膜や腸管を損傷して死亡させたという刑事事件もあります。10万回の脂肪吸引術で、20人ないし100人が死亡しているというデータもあります。何の死亡リスクと比較すればいいのかよくわかりませんが、治療目的ではない、単に美容目的の施術でのこの死亡率は、あまりに大きすぎます。
最近、医師免許取得後、初期研修を終えてすぐに美容医療に進む、いわゆる「直美」とよばれる若手医師が増えていると言われています。そのような医師たちは、自分たちが操る医療という技術の危険性を、ほんとうに認識しているでしょうか。
「美しくなりたい」という人間の欲求を否定することはできません。それだけに、医療をその手段とした場合の危険性は、社会的に広く知られるべきだと思います。