枕草子第一段の文章は、「夏は夜、月の頃はさらなり。闇もなほ、蛍の多く飛び違いたる。……」と続きます。調べてみると、枕草子以前には、蛍は夏ではなく秋の景物であったということに驚かされるのですが、とりあえずそこは措いて、秋に向かいましょう。
秋は夕暮れ。 夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて、雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。

春に比べれば、秋の方が自然かもしれません。雁、虫の音といった伝統的な秋の景物の点描がありますからね。しかし、夕暮れという特定の時間帯を、秋という季節に結びつけたのは、「春はあけぼの」と同じく、清少納言の独創でした。
百人一首には、秋の夕暮れを詠った歌が二首、撰ばれています。
寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ(良暹法師:後拾遺333)
村雨の 露もまだ干ぬ 真木の葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ(寂蓮法師:新古今491)
そういうこともあって、わたしたちは、なんとなく、秋という季節と、夕暮れという時間帯との結びつきに慣らされてしまっています。
しかし、この「秋の夕暮れ」という成句は、清少納言の時代以前の勅撰集、つまり古今、後撰、拾遺には登場しません。「春のあけぼの」同様に、後拾遺集が初出であり、良暹法師の歌はその一つです。そして、金葉、詞歌、千載の時代を経て、新古今においては、いわゆる三夕の歌をはじめとして、「秋の夕暮れ」オンパレードの観を呈することになります。
さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ(寂蓮法師:新古今361)
心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ(西行法師:同362)
見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ(藤原定家:同363)
しかし、いかに秋の夕暮れに風情があろうとも、これほど頻繁に詠まれるようになると、新鮮味も薄れるというものでしょう。新古今の時代には、それを逆手にとった趣向も生まれました。
見わたせば 山もとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と なにおもひけむ(後鳥羽院:新古今36)
「霞む」という言葉から、季節は春。春の夕暮れもなかなか乙ではないか、夕暮れなら秋だなんて、どうして思い込んでいたんだろう、という歌です。もちろんこれは修辞的疑問であって、枕草子のせいであることは、みんな知っている。
薄霧の まがきの花の 朝じめり 秋はゆうべと たれかいひけむ(藤原清輔:新古今340)
こちらは「霧」なので、季節は秋。秋の朝もなかなか乙ではないか、秋は夕暮れだなんて誰が言ったんだ、という歌です。これも同じく修辞的疑問で、そう言ったのが清少納言であることは、みんな知っている。
春はあけぼの、秋は夕暮れという美意識で、後世の歌人たちに甚大な影響を与えた清少納言。
しかし、彼女自身は、実は、歌を詠むことに消極的でした。
……もののをりなど人の詠み侍らむにも、「詠め」などおほせられば、えさぶらふまじきここちなむしはべる。いといかがは、文字の数しらず、春は冬の歌、秋は梅花の歌などを詠むやうははべらむ。なれど、歌詠むと言はれし末々は、すこし人よりまさりて、「そのをりの歌は、これこそありけれ、さは言へど、それが子なれば」など言はればこそ、甲斐あるここちもしはべらめ。つゆとりわきたる方もなくて、さすがに歌がましう、我はと思へるさまに、最初に詠みいで侍らむ、亡き人のためにもいとほしうはべる。(枕草子第九五段 五月の御精進のほど)。
曾祖父は清原深養父、父は清原元輔、いずれも名高い歌人です。その末裔たる清少納言は、それなりの歌を詠んでも、「それくらい詠めて当然」という目で見られてしまう。特に人に抜きん出ているわけでもないのに、得意気に人より先に詠んだりしようものなら、亡き父の名さえ汚しかねない。
この当時、歌を詠むことは、宮仕えの女房としての半ば公務であり、その能力がもっとも試されるところだったのではないかと思われます。しかし、清少納言は、その方面で能力を発揮することを、はじめから放棄していました。
それを恕したのが、清少納言の仕えた、中宮定子という人の懐の深さです。
(定子) さらば、ただ心にまかす。われは詠めとも言わじ。
(清少) いと心やすくなりはべりぬ。いまは歌のこと思ひかけじ。
定子の許であればこそ、清少納言は、歌という伝統の軛から離れて、自分の書きたい放題を書くことができました。
枕草子第一段の独創的な美学は、その自由から生まれたものです。しかし、この歌に非ざるところからうまれた美学は、歌の世界を徐々に浸食し、新古今の時代には、それをわざわざひっくり返して、春の夕暮れ、秋の朝の風情を詠うのが一つの趣向として評価されるほどに、支配的なものになっていました。