紫式部が、清少納言から多大な影響を受けていること、つまり枕草子を熟読していたであろうことは、衆目の一致するところです。
では、清少納言は、源氏物語を読んでいたでしょうか。
セイ、あなたがムラサキのことをどう思っていたかは何もわかっていない。
その代わり、わたしたちには、この千年の間、研究者や読者が彼女についてどう思ってきたかの情報は山のようにある。セイ、聞きたい?
ミア・カンキマキ『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』
枕草子には、後に紫式部の夫となる藤原宣孝が印象的な人物として描かれていますが、紫式部本人は登場しません。お互いの私家集にも、二人の交流の形跡はありません。
ところが、枕草子の中に、一つだけ、紫式部の影が窺われる章段があります。
日ごろ吹きつる雪の、今日はやみて、風などいたう吹きつれば、垂氷いみじうしたり。土などこそ、むらむら白きに、あやしき賤の屋も雪に皆面隠しして、有明の月のくまなきに、いみじうをかし。銀などを葺きたるやうなるに、水晶の滝など言はましやうにて、長く短く、ことさらに掛けわたしたると見えて、言ふにもあまりてめでたきに、下簾もかけぬ車の、簾をいと高う上げたれば、奥までさし入りたる月に、薄色、白き、紅梅など、七つ八つばかり着たる上に、濃き衣のいとあざやかなるつやなど、月に映えていとをかしう見ゆるかたはらに、葡萄染の固紋の指貫、白き衣どもあまた、山吹、紅など着こぼして、直衣のいと白き、紐を解きたれば、脱ぎ垂れられていみじうこぼれ出でたり。
枕草子二八七段 十二月二十四日、宮の御仏名の…
雪景色を照らす、有明の月。
紫式部は、源氏物語の朝顔帖で、師走の月を、「すさまじきもの」の例として挙げた清少納言の心の浅さを嘲笑しました。しかし、この二八七段を読む限り、その批判は全くの的外れということになりそうです。
そうなのでしょうか。
山本淳子さんは、この二八七段は、源氏物語の朝顔の帖を読んだ清少納言が、その批判に応えて書いたものではないかとの推論を、著書『枕草子のたくらみ』の中で、展開しています。
清少納言が定子に仕えていたのは1000年までであり、紫式部が彰子のもとに出仕したのは早くても1005年以降です。そのことから、枕草子の成立は源氏物語より先であると考えられており、実際、大部分はそうなのでしょう。
だから、枕草子から源氏物語への影響を指摘する研究はたくさんありますが、その逆は、あまり想定されていません。
しかし、枕草子には、登場人物の肩書きから、定子の死亡後に書かれたと思われる章段もかなり多く含まれています。枕草子も、源氏物語も、相当長期にわたって執筆されたものであり、おそらく、執筆期間の一部は重なっています。
しかも、二つとも、最後まで完成された形で発表されたものではなく、書かれた部分が逐次公表される形であった可能性が大きい。清少納言が源氏物語を読み、その影響を受けてある章段を書き加えるということも、あり得ないことでは、ない。
考えてみれば、紫式部が、既に書かれていた枕草子の一部を読み落とすとか、無視するといった事態は、彼女の性格からして、ちょっと考え難いような気がします。紫式部は、眼光紙背に徹する勢いで枕草子を熟読した上、確信を以て、この朝顔帖の清少納言批判を書いたはずです。紫式部が、他の女房から、「藤式部さん、枕草子にはこういう文章もありますのよ」などと指摘されるような迂闊な真似をするとは、わたしには到底思えません。
この山本さんの推論には、説得力を感じます。
とはいえ、もちろんこれは、一つの仮説に過ぎません。
でも、実際に清少納言が源氏物語を読んでいたとしたら、いったい、どんな感想を抱いただろうかと考えるのは、ちょっと楽しい想像です。
きっと、「をかし」と手を打ったのではないでしょうか。
清少納言は、美しいものを美しいものとして、優れたものを優れたものとして、私心なく評価する目を持っていた人だと思います。
だから、「朝顔」での批判が自分に向けられていることを知っても、「ふむむふ、なるほど、冬の月も捨てたもんじゃないかも」という感覚で、二八七段を構想したのではないか。
古文の教科書などでよく目にする、「くらげの骨」(第九八段 中納言まゐりたまひて)や、「香炉峰の雪」(第二八四段 雪のいと高う降りたるを)といったエピソードを読んでいると、自慢話ばかりしている嫌ったらしいオールドミスみたいな印象がありますが、あれは定子サロンの魅力を伝えるための章段だと理解すべきものでしょう。
ふと心劣りとかするものは、男も女も、言葉の文字いやしう使ひたるこそ、よろづのことにまさりて、わろけれ。ただ文字一つに、あやしうあてにもいやしうもなるは、いかなるにかあらむ。さるは、かう思ふ人、ことにすぐれてもあらじかし。いづれをよしあしと知るにかは。されど、人をば知らじ、ただ、ここちにさおぼゆるなり。
枕草子第一八八段 ふと心劣りするものは
こんなこと言っているわたし自身、特に優れてもいないんで、いいとか悪いとかっていう筋合いでもなくて、単なる個人的な好みに過ぎないんですけど、というこの姿勢こそ、枕草子全篇に通ずる率直さ、謙虚さであるように感じられます。