紫式部日記での、はしたないほどに露骨な清少納言批判は、娘賢子に宛てた私信であればこそだと思います。
不特定多数の目に触れる源氏物語においては、紫式部は、もう少し洗練された批判を展開しています。
その一つが、紙に関するものです。
清少納言は、白い陸奥紙への愛着を、繰り返し、語りました。
白くきよげなる陸奥紙に、いといと細う、書くべくはあらぬ筆して、文書きたる。
(枕草子第二八段 心ゆくもの)
世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべきここちもせで、ただ、いづちもいづちも行きもしばやと思ふに、ただの紙のいと白うきよげなるに、よき筆、白き色紙、陸奥紙など、得つれば、こよなうなぐさみて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかんめり、となむおぼゆる。
(枕草子二六二段 御前にて、人々とも…)
この陸奥紙は、当時、その白さによって珍重された上質の紙です。
気持ちが塞いでいる時に、なにか文章を書くことで、あるいは単に文字を書くことで前向きになれる。
わたしは、そういう清少納言の思いに、強く共感します。ましてや、紙が貴重品だったこの時代、好きなことを書き付けることのできる紙を得ることが、どれほど嬉しいことであったか。
しかし、これが紫式部にかかると、陸奥紙は時代遅れの無粋なものであり、この「厚肥えたる」紙に恋文を書きつけて送ってきた末摘花のセンスのなさが笑いものにされます(末摘花)。そして、「明石」帖では、明石入道の陸奥紙に対し、光源氏の選ぶ「高麗の胡桃色の紙」や、「いといとうなよびたる薄様」、「浅からず染めたる紫の紙」などが対比され(明石)、「教養のない誰かさんにとっては、陸奥紙あたりが一番上等なんでしょうけどね」という紫式部のドヤ顔が読者の頭に浮ぶ展開となります。
そんな読み方は、むしろ紫式部に対して意地悪過ぎるのではないかという人もいるかもしれません。
では、次の例はどうでしょう。
ときどきにつけても、人の心の移すめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に雪の光りあひたる空こそ、あやしう色なきものの身に染みて、この世のほかの事まで思ひ流され、おもしろさもあはれさも残らぬをりなれ。すさまじきためしに言ひおきけむ人の心浅さよ。
(源氏物語 朝顔)
桜や紅葉の色鮮やかさよりも、月明かりに照らされた雪景色の方が素晴らしい。それが興醒めだなんていってしまう人のセンスのなさったら!
そんなこと言ったのは、誰?
14世紀後半の成立とみられる源氏物語の注釈書「河海抄」によれば、枕草子の中に、「すさまじきもの。しはすの月夜、媼のけそう」という文章があったのだそうです。
今日伝わる枕草子の「すさまじきもの」(興醒めするもの)の章段で列挙されているのは、「昼ほゆる犬、春の網代。三、四月の紅梅の衣。牛死にたる牛飼。ちご亡くなりたる産屋……」(第二二段 すさまじきもの)といったものであり、「師走のつごもりの長雨」はあるものの、冬の月夜は含まれていません。
しかし、紫式部が読んだ枕草子には、この文章があったのでしょう。そして、同時代に枕草子を読んでいた読者たちにとって、紫式部の批判の矛先が清少納言に向けられていることは一目瞭然だったと思われます。
紫式部が清少納言から多大な影響を受けていることは、間違いありません。
「あけぼの」という言葉にしてもそうですが、他にもたくさん指摘されています。
例えば、「野分」帖で、一晩中眠れずに過ごした玉鬘が、寝過ごした翌日、日も高くなってから鏡台に向かっている姿を描く際に、枕草子に描かれた以下のような女性像を意識しなかったとは思えません。
まことしうきよげなる人の、夜は風の騒ぎに寝られざりければ、久しう寝起きたるままに、母屋よりすこしゐざり出たる、髪は風に吹きまよはされて、すこしうちふくだたみたるが、肩にかかれるほど、まことにめでたし。
枕草子第一八九段 野分のまたの日こそ
それほどにまで影響を受けている清少納言を、日記では名指しで、「したり顔にいみじう侍りける人」、「まだいと足らぬこと多かり」と批難し、源氏物語の中では、名指しこそしないものの、「すさまじきためしに言ひおきけむ人の心浅さよ」と切って捨てる。
酒井順子さんは、『紫式部の欲望』(集英社文庫)の序文で、国文学の泰斗池田亀鑑の「付き合うなら清少納言だね、紫式部はごめんです」という言葉を引きつつ、こう言います。
……紫式部と同性である私は、同性であるからこそ、彼女の湿った部分に触れてみずにはいられないのです。男性が「付き合いたくないなあ」と思う理由となるのであろう彼女の中の湿った部分と、自分の中にある暗部とは、どこかで必ず通じあっているから。
紫式部は、暗く深い沼を自分の中に持っていたからこそ、あの物語を描くことができたのです。
紫式部の、清少納言批判の苛烈さをみると、なるほど、こういう人だから、源氏物語を書くことができたのだと、酒井さんの指摘に深く頷かざるを得ません。