清少納言集からは、定子没後の一時期、夫である藤原棟世の任地である摂津に下っていた時期があることが窺われます。
津の国にある頃、内、御使ひに忠隆を
世の中を 厭ふなにその 春とてや(下欠) (清少納言集23)
逃るれど 同じ難波の 潟なれば いづれも何か 住吉の里(同24)
ここで「内」というのは、一条帝です。下の句が欠けているのが残念ですが、おそらく、定子存命中はあなたにも苦労をかけました、そちらでは幸せに暮らしていますか、という問いかけだったのではないでしょうか。いえいえ、都を離れても、生き辛いことは同じです、というのが清少納言の返歌。上様も、このわたしも、生き辛い世を生きている。
定子没後の喪失感から抜けだせない二人。
その後、どこかの時点で、清少納言は都に戻ります。
長保5年(1003年)には棟世の後任の摂津守が着任していたことが確認されますので、清少納言の摂津住まいは2〜3年というところでしょう。
和泉式部集には、清少納言との間の、次のようなやりとりが残されています。
同じ日、清少納言
駒すらに すさめぬ程に 老いぬれば 何のあやめも 知られやはする(和泉式部集504)
すさめぬに ねたさもねたし あやめ草 ひきかへしても 駒返りなん(同505)
清少納言と和泉式部の関係はよく分かりませんが、若い頃からその歌才が注目を集めていた和泉式部ですから、その関係で、元輔の娘である清少納言ともさまざまな交流があったものと思われます。和泉式部集には、清少納言から贈られてきた海苔へのお礼に詠んだ歌もあります。これは、清少納言が摂津にいた時期のことでしょうか。
あやめ草の歌が詠まれた、「同じ日」というのは、祭主輔親の娘、すなわち伊勢大輔と和泉式部との間に歌のやりとり(同501〜503)があったのと同じ日という意味です。そして、清少納言の、「あやめ」が、伊勢大輔の、「流れつつみづのわたりのあやめ草ひきかへすべき根やは残れる」(503)と引き取ったものであるとすれば、これはふたつのやりとりがたまたま同じ日に重なったのではなく、この日、和泉式部、伊勢大輔、清少納言の3人が同じ場所に居合わせたと考えるのが普通です。
一世代ほど年若の伊勢大輔(989年頃生)を前にして、「若いっていいわね、あたしなんか人からも馬からも相手にされないくらい老いぼれて、あやめ(文目)もなにもわかりませんわ」という清少納言と、「あたしも、もう誰も相手にしてくれないので、若い人が羨ましい、戻れるなら戻りたいものです」という和泉式部のやりとりなのだと思われます。
このことからすると、この頃、清少納言は、宮仕えを再開していた、ということになりそうです。和泉式部が寛弘6年(1009年)頃に彰子サロンに出仕し、同9年(1012年)には夫藤原保昌の任地である丹後に下向していますので、「同じ日」は、その間のどこか。
清少納言の出仕先としては、赤間恵津子氏が「枕草子日記的章段の研究」で推測しているように、定子の忘れ形見である修子内親王が考えられるところです。修子内親王は、同8年(1011年)の一条帝没後に叔父の藤原隆家邸に移るまでは宮中で生活していたようですから、清少納言がそこにいたとすれば、彰子サロンの和泉式部や伊勢大輔と交流する機会もあったでしょう。
なお、清少納言と藤原棟世の娘に、上東門院小馬命婦と呼ばれる女性がいます。上東門院というのは、中宮彰子のこと。つまり、清少納言の娘は、彰子サロンの一員でした。
後朱雀朝から後冷泉朝にかけて活躍した藤原範永の家集には、この小馬命婦とのやりとりがあります。
女院に候ふ清少納言が娘小馬が草子を借りて、返すとて
いにしへの 世に散りにけむ 言の葉を 書き集めけむ 人の心よ(範永集109)
返し
散りつめる 言の葉知れる 君見ずは 書き集めても 甲斐なからまし(同110)
女院というのは、彰子です。「草子」は、枕草子のことと思われます。枕草子の普及に、彰子サロンが大きな役割を果たしていたことが窺われます。
道長にとっては、定子は、目の上のたんこぶのような存在でした。しかし、娘の彰子の思いは、父親とは違っていたようです。自分の子である敦成親王ではなく、定子の子である敦康親王を東宮に推したくらいですからね。そういう彰子にとって、枕草子は、愛する一条帝の幸せな日々が記録された書物として、源氏物語同様に大切なものであったのかもしれません。
そういった関係からすれば、清少納言も、娘とともに彰子に仕えていたのではないかという想像も、成り立たないではありません。
王朝文学史に並び立つ、清少納言と紫式部という二人の作家の間に、もし出会いがあったとすればこの頃のことだと思われます。