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2026/10/28

紫式部⑩〜その晩年

 紫式部の晩年を伝える資料は、ありません。

 

 ほぼ異論なく認められているのは、長和2年(1014年)5月までは、彰子のサロンで女房としての役割を果たしていたであろうこと。

 

  資平去夜密々令参皇太后宮、令啓東宮御脳之間依假不参之由、今朝帰去云、去夕相女房(越後守為時女、以此女前々令啓雑事而己)、彼女云、東宮御脳雖非重猶未御尋常之内、熱気末散給、亦左府聊有患気有。(小右記 長和2年5月25日)

 資平、去夜、密々に皇太后宮に参らしめ、東宮の御悩を啓せしむる間、仮に依りて参らざる由、今朝帰り去ると云ふ。去夕、相女房(越後守為時の女、此の女を以て前々雑事を啓せしむるのみ)、彼の女云はく、「東宮の御悩、重きには非ずと雖も、猶ほ未だ御尋常ならざるの内、熱気未だ散じ給はず、亦、左府、聊か患気有り」と

 

  これは、藤原実資の養子資平が、実資の代理で、当時枇杷殿に居住していた皇太后彰子を密かに訪ね、東宮(敦成親王)の病状を探った際に、女房である「越後守為時女」が、資平に、東宮と左大臣(道長)の病状を伝えたという記事です。

   実資の小右記は、行成の権記、道長の御堂関白記と並ぶこの時代の一次資料であり、この「越後守為時女」が紫式部であることは、間違いないでしょう。

 

 この時期、紫式部を「日本紀の局」と讃えた一条帝は既に世を去り、三条帝の世に移っています。敦成親王が後一条天皇として即位し、三女威子をその中宮に立后した道長が、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」と我が世の春を謳歌するのは、この4年後のことになります。

 

 では、その後、紫式部はいつまで彰子サロンで勤め、いつまで存命していたのか。

   与謝野晶子は、「紫式部考」で、式部は長和4年(1016年)に37歳で亡くなったという推論を展開しています。

 道長の全盛期を見る前に、紫式部は亡くなった。

 

 その根拠は、概ね以下のようなものです。

 父為家が長和5年(1017年)に出家したことについて詠んだ歌がない。

  娘大弐三位に母を悼む歌がないのは、まだ歌を詠む年ごろに達する前に母である式部が亡くなったことを示している。

  寛仁2年(1018年)、道長邸の新年宴会の屏風に一代の名家を網羅して詩や歌をつくらせ行成をして書かせたとき、和泉式部がその一人として歌を詠んでいるのに、紫式部が生きていたらその選にもれるはずがない。

 さて、どうでしょうか。

 

  父為家の出家について詠んだ歌がない、と言いますが、長和3年(1015年)になくなった兄惟規を悼む歌もありません。

  この点、晶子は、紫式部集の39番を兄への追悼歌であると解釈しています。しかし、この歌のおかれている位置などからすれば、岩波文庫版の校注のとおり、肥前に行った女友だちの死を悼む歌と考えるのが自然だと思います。

 

  とほきところへ行きにし人の亡くなりにけるを親はらからなど帰り来て、悲しきこと言ひたるに

   いずかたの雲路と聞かば尋ねまし列離れけん雁がゆくゑを (紫式部集39)

 

 兄惟規を悼む歌がないとすれば、父為家の出家に際しての歌がなくてもさほどおかしなことではないのではないかな。

 

 後に大弐三位と呼ばれることになる娘賢子は、一般には、長保元年(999年)頃の生まれであると考えられており、晶子も長保二年の生まれと推定しています。そうであるならば、長和4年(1016年)には、賢子は既に16歳になっているわけですから、歌を詠めないような年ではありません。詠めるのに詠まなかったのか、詠んだのに残っていないのかわかりませんが、いずれにせよ、これを式部の没年を推定する根拠にすることはできないでしょう。

 

 栄花物語が伝えるところによれば、寛仁2年(1018年)、道長邸の新年宴会で詠われた歌は80首、名前が挙がっている詠み手は大和守輔尹、和泉式部、祭主輔親、四条大納言公任といったところ。祭主輔親は大中臣能宣の子で伊勢大輔の父、中古三十六歌仙の一人です。藤原輔尹は今日ではさほど有名ではありませんが、後十五番歌合にその名が見え、後拾遺集に6首入選しています。この当時は名のある歌人だったのでしょう。

 公任、和泉式部が当時を代表する歌人であったことはいうまでもありません。

  もちろん名前が挙がっていない詠み手の中に紫式部がいてもおかしくはありませんが、この当時の歌人としての評価からすれば、名前がなくてもごく自然です。

 

 与謝野晶子は、源氏物語の初の現代語訳を成し遂げた文学者であり、その帚木起筆説は、近代的な成立論に先鞭をつけたものともいえます。また、それまで源氏物語の陰に隠れてあまり注目されていなかった紫式部日記、紫式部集に光を当てたのも、晶子であったらしい。

  そういう意味で、彼女の功績は極めて大きいものがあるのですが、紫式部に対する思い入れが強すぎて、やや主観的な解釈に傾きがちであるように感じられます。

 

 

  一方、「光る君へ」の時代考証を担当した倉本一宏さんは、小右記の寛仁3年(1019年)の記事から、この頃までは、紫式部は彰子サロンに女房として働いていたと考えています。

 

 皇太后宮仰云、枇杷殿御坐之時、屢参入之事、今忘坐之由、有仰事。女房云、彼時参入、当時不参、世人不似、恥思食所也云々。(小右記 寛仁3年正月5日)

 皇太后宮仰せて云はく、枇杷殿に御座しし時、しばしば参入せし事、今に忘れおはさざる由、仰せ事あり。女房云はく、「彼の時参入し、当時参らざるは、世人に似ず、恥づかしく思し召す所なり」と云々。

 

 長和2年当時、実資の彰子への取り次ぎを担当していたのは紫式部でした。だからといって、その5年後の寛仁3年もやはりそうであったと言えるのか。式部がなんらかの事情で彰子サロンを去ったとしても、女房のうちの誰かが取り次ぎ役をしなければならないとすれば、それが式部だと推論する根拠にはならないのではないか。

 ……とも思うのですが、彰子と実資の昔話につきあっているように見えることからすれば、やはり昔から取り次ぎをしていた式部であると考えるのが自然なのかもしれません。わたし自身は、この女房の言葉の意味がいまひとつよく理解できないのですが。

 

  それにしても、これほど偉大な足跡を残した女性であるにもかかわらず、紫式部には、小野小町や和泉式部のような伝説が残されていません。

  源氏物語に狂言綺語を記して好色を描いた罪で地獄に落ちたという話は、どちらかというと「源氏供養」のために拵えられたような印象が強く、小野小町や和泉式部に纏わる伝説とは根本的な成り立ちが異なるように感じます。

  さほどの美人ではなかったから?

  でも、容姿に自信のなかった清少納言にさえいろいろな伝説が残されています。

  伝説なんてないのがあたりまえであって、そんなことを不思議に思う方がおかしいのかもしれませんけどね(^_^;)

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