紫式部は、いつ、いかなるきっかけで、源氏物語という小説を書き始めたのか。
なにも、分かっていません。
実は、平安時代の「つくり物語」は、一般に、作者不詳です。竹取物語、宇津保物語、落窪物語といった前期物語はもちろんのこと、源氏以降の、浜松中納言物語、夜の寝覚め、狭衣物語といった後期物語も、推定される作者は存在しますが、明確な証拠はありません。「つくり物語」に限らず、伊勢物語をはじめとする歌物語の作者も分かりません。分かっているのは、土佐日記、蜻蛉日記といった日記文学と、『枕草子』、つまり、一人称の文学に限られます。
希有なことに、源氏物語の場合、一人称文学である紫式部日記の記事から、紫式部が作者であることには、ほぼ、異論がありません。
左衛門督、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。
紫式部日記:寛弘5年11月1日
これは、敦成親王(後の後一条天皇)の出産祝いに土御門邸を訪れた左衛門督藤原公任が、紫式部を「若紫」と呼んで探している場面です。
寛弘5年は、西暦でいえば1008年。
この記事に因んで、千年後の2008年、11月1日を「古典の日」とすることになりました。
また、この後、中宮彰子が、実家の土御門邸から一条内裏に戻るに際し、父親である左大臣道長が贈り物として制作した「御冊子」には、古今集や元輔集とともに源氏物語も含まれていたようであり、この時点で、少なくともある程度までは書き上げられていたと考えられます。
資料から言えるのは、このあたりまで。
おそらく、長保3年(1001年)5月に夫宣孝に先立たれ、寛弘2年(1005年)12月(あるいはその翌年12月)に中宮彰子に出仕するまでのどこかの時点で起筆されたのではないかという説が有力ですが、あくまでも推測に過ぎません。
歌集や日記にみえるこの頃の紫式部は、ただひたすらに鬱々とした日々を過ごしていたように思われます。
世中のさはがしきころ、朝顔をひとのもとへやるとて
消えぬ間の 身をも知る知る 朝顔の 露とあらそふ 世を嘆くかな
身を思わずなりと嘆くことの、やうやうなのめに、ひたぶるのさまを思ひける
数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり
彰子のもとに出仕した後も、同僚の女官たちに馴染めず、引き籠もってしまう有様。なにかきっかけを与えようとしてか、彰子が歌を求めても……
正月十日のほどに、「春の歌たてまつれ」とありければ、まだ出で立ちもせぬ隠れ処にて
み吉野は 春の景色に 霞めども 結ぼほれたる 雪の下草
世間には春が訪れたとしても、先輩方の態度が冷たいので、わたしは雪の下の草のように、萌え出ることもできないでおります。
沖方丁『月と日の后』には、こんな歌をもらって、その頑なさに驚く彰子が描かれていました。
そもそも、紫式部は、少なくとも初めのうちは、こういった宮仕え自体を好んでいなかったようです。おそらく、この当時、ある程度の地位のある貴族であれば、娘に宮仕えなどさせたくないというのが世間一般の感覚だったように思われます。
そういう意味では、枕草子に記された清少納言のメンタリティは斬新でした。
生い先なく、まめやかに、えせざいはひなど見てゐたらむ人は、いぶせく、あなづらはしく思ひやられて、なほ、さりぬべからむ人のむすめなどは、さしまじらはせ、世の有様も見せならはさまほしう、内侍のすけなどにてしばしもあらせばや、とこそ、おぼゆれ
枕草子第21段 生い先なく、まめやかに
このあたりは、もともと学者の家系で、さほど身分の高い先祖をもたない清少納言と、父親こそ受領階級に落ちぶれてはいたものの曾祖父まで遡れば三条右大臣藤原定方や堤中納言藤原兼輔がいる家系に生まれた紫式部との違いかもしれませんし、清少納言が仕えたのが、「今めかしう氣近き御有様」であったとされる定子サロンであったことも影響している可能性があります。
紫式部のこの鬱々たる感覚は、女房生活が軌道に乗った後も、続いていたようです。
いかで、いまはなほ物忘れしなむ、思ひ甲斐もなし、罪も深かりなど、明けたてればうち眺めて、水鳥どもの思うことなげに遊び合えるを見る。
水鳥を 水の上とや よそに見む われも浮きたる 世をすぐしつつ
紫式部日記:寛弘5年10月中旬
例の「若紫やさぶらふ」より二週間程前の記事です。