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2026/04/01 2026/04/02

中宮定子⑤〜草葉の露をそれと眺めよ

 清少納言は、長保2(1000)年12月の定子の死についても、一言も語っていません。

 それを伝えるのは、栄花物語です。

 かかる程に御子生れ給へり。女に在しますを口惜しけれど、さばれ無事に才しますを勝る事なく思ひて、今は後の御事になりぬ。額を突き騒ぎ、萬に御誦経とりいでさせ給ふに、御湯など進らするに、聞し召しいるやうにもあらねば、皆人あわて惑ふを、かしこき事する程に、いと久しうなりぬれば、猶いといとおぼつかなし。「御殿油近う持てこ」とて、帥殿御顔を見奉り給ふにむげに御氣色なり。浅ましくてかひ探り奉り給へば、やがて冷えさせ給ひにけり。

(栄花物語 鳥邊野)

 第3子である媄子内親王出産に伴う死亡であり、おそらくは、産後出血によるものだったのでしょう。

 

 定子は、辞世の歌を三首、残していました。いずれも、死の床を覆った几帳に結びつけれられていたと伝えられています。

  夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき (後拾遺536)

  知る人もなき 別れ路に 今はとて 心ぼそくも 急ぎたつかな (後拾遺537)

  煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ (後拾遺異本)

 

 実は、このような定子の最期の姿が描かれているのではないかと言われている作品が、栄花物語以外に、もう一つ、あります。

 いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。

 はじめより我はと思ひ上がり給へる御方々、めざましきものにおとしめ 嫉み給ふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、まして安からず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに 里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせ給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。

(源氏物語 桐壺)

 

 入内当時の定子は、関白道隆の娘として、「やんごとなき」立場にありましたが、その地位は、道隆亡き後、長徳の変による兄伊周の凋落によって失われました。この間、大納言藤原公季女の義子、右大臣藤原顕光女の元子が相次いで一条帝に入内しています。

 しかし、一条帝の寵愛は変わりませんでした。例えば、藤原実資による、「天下不甘心」といった批判を余所に、つまり、「人のそしりをもえ憚らせ給はず」、一条帝は、定子を内裏に呼び戻しました。定子存命中、一条帝は他の女御との間に子どもを儲けてはいません。長徳の変以降の定子は、まさに、「女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふ」という状態だったのです。

 紫式部が、桐壺更衣の最期に詠ませた

  かぎりとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは いのちなりけり

 という歌は、定子の、「知る人もなき…」を意識したものではないかとも言われています。

 

 紫式部は、定子の生前、その謦咳に接する機会はありませんでした。紫式部が彰子サロンという歴史の表舞台に登場するのは、定子の死後5年以上を経てからのことであり、それまでは単なる中級貴族の子女に過ぎません。

 しかし、長徳の変は、貴族社会全体を揺るがす政治的大事件であり、末端の中流ないし下級貴族にも大きな影響があったはずです。紫式部の父藤原為家が越前守に任ぜられたのは、長徳の変によって左大臣になった道長が行った除目によるものでした。

 また、定子の夭逝も、当時の貴族社会に大きな衝撃を与えた文化的な事件だったと思われます。道長の養子源成信、藤原顕光の長男重家という将来を嘱望されていた若い貴族が出家したのは、定子の死に現世の儚さを感じたからだと言われています。

 

 紫式部が、後宮の外に漏れ伝わってきた定子の晩年から、桐壺更衣という悲劇的な人物を造形したのではないかという想像は、さほど突飛なものでもなさそうです。

 

 内裏で、鳥辺野に葬られる定子を思う、一条帝。

 

 内には、今宵ぞかしと思し召しやりて、終夜御殿籠らず、思ほし明かさせ給ひて、御袖の氷も所せく思し召されて、世の常の御有様ならば、霞まん野邊も眺めさせ給ふべきも、いかんせんとのみ思し召されて、

  野邊までに 心ばかりは 通へども

     わが行幸とも 知らずやありなん 

(栄花物語 鳥邊野)

 

 定子に遅れること11年、寛弘8年(1011年)に一条帝は出家し、その3日後に世を去ります。

 亡くなる前日に詠んだ歌が、いくつかの形で伝えられています。

  露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき(権記)

  露の身の 草の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事をこそ思へ(御堂関白記)

  露の身の 仮の宿りに 君を置きて 家を出でぬる 事ぞ悲しき(栄花物語 いはかげ)

  秋風の 露の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき(新古今和歌集 779)

 その場に立ち会っていた藤原行成(権記)は、ここでの「君」を、定子を指すものと理解しているようです。

 定子は、土葬でした。まさしく煙とも雲ともならずに、草葉の露としてこの世界に残っている。その君を残して、俗世間から去って行くことが、悲しい。

 一条帝が、土葬を希望したというのも、その解釈を裏付けているように思われます。

 それにもかかわらず火葬にされてしまったのは、ときの最高権力者であり、中宮彰子の父親である藤原道長が、その一条帝の希望を、「失念していた」からとされています。

 

 

 

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