和漢朗詠集は、もともとは道長の娘威子が後一条天皇に入内する際の引き出物であった屏風絵に添えるものとして撰集され、後に、公任の娘が、道長の息子教通と結婚する際の引き出物として、藤原行成が清書し、冊子として装幀したと言われています。
藤原行成は、小野道風、藤原佐里とともに三蹟の一人に数え上げられる能書家であり、この時代、書においては並ぶ者のない第一人者でした。
行成の父義孝、祖父伊尹は、いずれも百人一首に名を残す歌人です。それ以上に、伊尹は藤原北家九条流の祖である師輔の嫡男であり、その孫である行成は、政界の本流たるべき血筋であったといえます。しかし、伊尹は、円融天皇の摂政太政大臣という地位のまま早逝、その二年後には義孝も若干20才で、疱瘡のため亡くなってしまいました。
幼くして後ろ盾を亡くした義孝は、己の才覚のみを頼りに、公家社会の階段を昇っていくことになります。
どういう巡り合わせか、藤原氏においては、当初後継と目された長男の家を、次男、三男の家が逆転するという歴史が繰り返されています。史上初の関白として摂関政治の基礎を固めた基経には、世に、「三平」と謳われた、時平・仲平・忠平という息子がありましたが、長男時平の早逝により、末弟の忠平が長期政権を築くことになりました。忠平を嗣いで氏の長者となった長男実頼は、その娘が皇子に恵まれず、嫡流の地位を弟師輔に譲らざるをえませんでした。師輔死後に政権を握った長男伊尹は、太政大臣就任直後に病に倒れ、次男兼通から、従兄にあたる頼忠へと政権は移り、最終的に摂政関白太政大臣の地位を極めたのは三男兼家でした。その兼家を継いだ長男道隆も、関白在任中に病没し、次男道兼の七日関白を経て、三男道長の時代となります。

こういった流れの中で、血筋ほどには高い地位を得られなかったのが、実頼の孫である公任であり、伊尹の孫である行成です。しかし、若い頃から三舟の才を謳われた公任が、さまざまな場面で不遇感を露わにしているのに対し、行成はそういう部分をまったく見せず、ただ実直に、道長の補佐役に徹していたように思われます。
枕草子に登場する男性貴族の中で、最も華やかな貴公子に描かれているのは、行成とともに蔵人頭を務めた藤原斉信です。また、彼らの前任者であった公任は、畏れ多い教養人として描かれています。しかし、清少納言が、その人格をもっとも評価していたのは行成であったように思われます。
というよりは、ウマが合う、という関係だったのかもしれません。
頭の弁の、職にまゐりたまひて物語したまひしに、夜いたうふけぬ。……「今日は、残り多かるここちなむする。夜を通して昔物語も聞え明さむとせしを、鶏の声にもよほされてなむ」と、いみじふ言多く書きたまへる、いとめでたし。御返りに、「いと夜深くはべりけむ鶏の声は、孟嘗君のにや」と聞こえたれば、立ち返り、「孟嘗君の鶏は、函谷関をひらきて、三千の客わづかに去れり、とあれども、これは逢坂の関なり」とあれば、
「夜をこめて鶏の虚音ははかるともよに逢坂の関は許さじ
心かしこき関守はべり」と聞こゆ。また、立ち返り、
逢坂は人越え易き関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか
とありし文どもを、はじめのは、僧都の君、いみじう額をさへつきて取りたまへてき。後々のは御前に。
(枕草子第一三一段 頭の弁の、職にまゐりたまひて)
夜更けまで一緒に過ごした後の、まるで後朝のやりとりのようですが、「朝まで一緒に居たかったのだけど鶏の声に急かされて退出せざるを得ませんでした」、「なんの、その鶏の声は、孟嘗君の故事にある嘘鳴きでしょう(あたしと一緒にいたくなかったからそんな口実を使うのね)」、「いえいえ、わたしが言ってるのは、函谷関ではなくて逢坂の関のことですってば(逃げ出したかったわけじゃありません)」……そういった当意即妙の掛け合いの後、百人一首で知られる、「夜をこめて」の歌が詠まれ、行成の返歌が続きます。
この返歌は、男性に積極的な女性を揶揄しているようで、すいぶん失礼な感じもするのですが、清少納言はちっとも気を悪くしていない様子。
ところで、行成は、ほかのことは何でも長けているけれど、歌の道には暗い人とされていました。
この大納言殿、よろづにととのひ給へるに、和歌の方や少しおくれ給へりけむ。殿上に歌論義といふこと出できて、その道の人々、いかが問答すべきなど、歌の学問よりほかのこともなきに、この大納言殿は、物も宣はざりければ、いかなることぞとて、なにがしの殿の、「難波津に咲くやこの花冬ごもり、いかに」と聞えさせ給ひければ、とばかり物も宣はで、いみじう思し案ずるさまにもてなして、「え知らず」と答へさせ給へりけるに、人々笑ひて、こと醒め侍りにけり。
(大鏡 太政大臣伊尹 謙徳公)
難波津の歌というのは、あさか山の歌とともに、古今集仮名序で「歌の父母」と位置づけられている程の有名な歌です。歌人として名高い祖父伊尹、父義孝の薫陶を受ける機会はなかったにせよ、行成だって知らないはずはない。それを問われて、「知らない」と答えたのは、自分は歌についての議論に参加するつもりはない、歌の話題を自分に振ってくれるなという拒絶に他なりません。それも言下に拒絶するというのではなく、「いみじう思い案ずるさま」という姿には、行成の実直かつ慎重な性格が表れているようです。歌の道に暗いのではなくて、むしろ、人並み以上に通じていればこそ、半端な知ったかぶりはしたくない、という矜恃さえ感じます。
このような行成の態度には、自分は歌なんか詠みたくないんだ、いくらか上手い歌を詠んだって、深養父や元輔の裔だから当然と言われるし、下手な歌を詠もうものなら先祖の名を汚してしまいかねないと駄々をこねた清少納言のそれに通じるものがあります。このあたり、ウマが合う理由の一つであったかもしれません。
そういった、歌に消極的な二人の歌のやりとりが枕草子に遺され、百人一首の一つとしていまも親しまれているというところが、歴史の奥深さともいえます。
枕草子第百三一段のエピソードで、もう一つ印象的なのは、行成の最初の手紙は、僧都の君から額をついて頼まれたので進呈した、あとの二つは定子様に、という部分です。能書家行成の手紙は、それほどまで珍重されていたらしい。
そんな手紙をもらった清少納言も、さぞ鼻が高かったことでしょうね。