歴史研究では、対象とする時代において制作された情報源を「一次資料」、それを引用、言及、補足したものを「二次資料」として区別します。この区別は、研究のテーマによる相対的なものであり、ある研究においては「一次資料」と見做されるものが、別な研究では「二次資料」でしかないということもあります。
しかし、一条朝及びその前後の歴史を研究するにあたっての一次資料が、藤原道長「御堂関白記」、藤原実資「小右記」、そして藤原行成の「権記」であることは争いのないところです。
紫式部日記はこれに準ずるものであり、枕草子になると、章段によるという感じでしょうか。栄華物語や大鏡は、あくまでも歴史物語であり、そこに歴史的事実の反映を見ることができるというレベルに止まります。
わたしは、角川文庫ビギナーズクラシックのレベルでしか「権記」を読めていないのですが、それでも、充分に興味深い資料です。
式部権大輔依丞相命上和歌題、云、処々尋紅葉、次帰相府馬場、読和歌、初到滝殿、右金吾詠云、
滝音能絶弖久成奴礼東名社流弖猶聞計礼
(権記 長保元年九月一二日)
ここで金吾というのは、藤原公任。歌は、百人一首で有名な、「滝の音の絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」。
行成は、書においては、「平仮名の完成者」と呼ばれる人です。和漢朗詠集でも、和歌は平仮名で書いています。おそらく、清少納言への手紙も、平仮名で書かれていたものと想われます。
その行成が、私的な日記においては、和歌を記すにも、平仮名を全く使わず、万葉仮名を使っている。つまり、当時の男性にとって、平仮名はあくまでも「女手」であって、用途の限定された文字であったということなのでしょうね。
当時所坐藤氏皇后東三条院、皇后宮、中宮、皆依出家、無勤氏祀、職納之物、可充神事、已有其数、然而入道之後、不勤其事、雖帯后位、雖有納物、如尸禄素飡之臣、徒資私用、空費公物、無勤神事、論之朝政、未有何益。
(権記:長保元年正月二八日)
ここでいう東三条院は円融帝女御詮子、皇后宮は円融帝中宮遵子、中宮は定子です。
問題になっているのは、一条帝には、既に定子という皇后がいるにもかかわらず、さらに彰子を皇后とすべきかどうか。行成は、いまの皇后3名はすべて出家していて神事を司ることができない、そんな皇后は何の役にも立たないとして、新たに彰子を皇后に冊立すべきとの強硬な意見を述べています。
定子死後、一条帝が三条帝に譲位するにあたり、定子の忘れ形見敦道親王と、彰子の第一子敦成親王の、どちらを次の東宮とすべきかが問題になりました。
行成は、敦成親王を支持します。
此皇子、故皇太后宮外戚高氏之先、依斎宮事為其後胤之者、皆以不和也。
(権記:寛弘八年五月二七日)
これは、敦康親王に反対する理由として、祖母貴子が高階氏の出身であることを挙げた部分です。
高階氏の祖は、斎宮恬子内親王と在原業平との密通によって生まれたのだという伝説がありました。伊勢物語第六九段で、その逢瀬が語られています。
君や来し われや行きけむ おもほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか
かきくらす 心の闇に まどひきに 夢うつつとは 今宵定めよ
「権記」のこの部分は後代の挿入であるという説もあるのですが、いずれにせよ、行成が敦成親王立太子に一役買ったことは間違いありません。
枕草子に登場する行成は、教養人公任や、貴公子斉信と比べると、どちらかといえば融通の利かない、篤実な硬骨漢のイメージです。しかし、権記において自ら語っているその行動は、時の権力者道長の横暴を、有職故実的な知識によって正当化するものでしかないように感じられます。
幼い頃に、祖父伊尹、父義孝を失った行成としては、道長に阿諛追従する以外の生き方はなかったのだ、という見方もあります。
しかし、それほど単純なことでもないのではないかと思わせるのは、一条帝の辞世の歌を書きとめた記事です。
御悩無頼、亥剋許法皇暫起、詠歌曰、
露之身乃風宿爾君乎置天塵を出ぬる事曾悲支
其御志在寄皇后、但難指知其意、于時近侍公卿侍臣男女道俗聞之者、為之莫不流涙
(権記:寛弘八年六月二一日)
露の身の風の宿りに君を置きて塵を出ぬることぞ悲しき
行成は、一条帝が最期に呼びかけた、「君」を、皇后、つまり定子であると理解しました。
それはおそらく、行成自身の思いとも重なっていたのではないでしょうか。
藤原氏の主流中の主流に生を受けながら、運命の悪戯で傍流としての生涯を送らざるを得なかった行成は、主流が主流であり続けるための権謀術数を、醒めた目で見つめていたのではないかと思います。承和の変、応天門の変、昌泰の変、安和の変といった藤原氏による他氏排斥の歴史も学んでいたでしょうし、長徳の変は、行成の目の前で起こった権力闘争でした。
仮に、彰子の立后が、定子の存在によって阻まれるとしたら、道長はその状況に甘んじるのか。どうにかして定子を廃そうと、なんらかの策を講ずるのではないか。仮に、敦康親王が東宮になったとしたら、道長は易々とそれを受け入れるだろうか。後ろ盾のない東宮が、謀反の濡れ衣を着せられて廃された歴史は枚挙に暇がないではないか。
行成贔屓のわたしとしては、彰子立后や、敦成親王立太子を支持した言動の裏には、定子や敦康親王は、そういった権力闘争の外で幸せに暮らしてほしいという想いがあったのではないか、と思いたいところです。
ところで、この一条帝の歌は、「を」、「ぬる」のみが平仮名で表記されています。公任の歌は、すべて漢字表記だったのに。
何故そうなのか。それについて説明してくれる研究を、未だ発見できていません。